KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

『子どもは判ってくれない』

子どもは判ってくれない

子どもは判ってくれない

だから、正しいことだけを言いたがる人は、必然的に「具体的なこと」を言わないようになる。そして、いったい誰が、どういう資格で、誰に向かっていっているのかも不分明になる。/今、私たちの社会はそのような、「具体性を欠き、誰に向かっていっているのかよくわからない」けれど、文句のつけようのないほど「正しい意見」に充満している。

私の選書の基本は「その本を読んでいないと、その本を読んでいる奴にダマされる危険がある」本を探り当てる、ということにあった。私は別に人より賢くなりたいわけではなかった。騙されるのが嫌だっただけである。

少し前に財界と文部省は「英語とコンピュータが使える即戦力」を大学に要求した(そして、教養課程というものがなくなった)。それが最近は「論理的思考力」や「哲学」を大学に要求し始めた。それって、ちょっと前に「そんなものは要らない」と言っていたものではないのだろうか。

私のホームページの掲示板にときどきずいぶん言葉遣いの悪い書き込みがされることがある。「ずいぶんな人だな」と思うけれども、どれほど口汚い罵詈雑言であっても、それを削除しないことを私は方針としている。/というのは「削除」するということは、その書き込みが私のホームページの「文脈」に受け入れ不能であることを「意味」してしまうからである。その書き込みが私の弱点を痛撃したために、私が「傷つき」、しかし「有効な反論を思いつかず」、くやしまぎれに「言論を抑圧した」、というような「勝手な解釈」をこの「書き込み者」に許してしまうからである。/私は礼儀知らずに対してそのような「意味の贈り物」を供与して差し上げるほど雅量のある人間ではない。

「理屈っぽい人」は一つの包丁でぜんぶ料理をすませようとする人のことである。/「論理的な人」は使えるものならドライバーだってホッチキスだって料理に使ってしまう人のことである(レヴィ=ストロースはこれを「ブリコラージュ」と称した)。

「誰にも迷惑かけていないんだから、ほっといてくれよ」と言って、売春したり、ドラッグをやったり、コンビニの前の道路にへたり込んでいる若者たちがいる。/彼らは「人に迷惑をかけない」というのが「社会人として最低のライン」であり、それだけクリアーすれば、それで文句はないだろうというロジックをよく使う。/なるほど、それもいいかもしれない。でも、自分自身に「社会人としての最低のライン」しか要求しない人間は、当然だけれど、他人からも「社会人として最低の扱い」しか受けることができない。そのことはわきまえていた方がいいと思う。

だから、さしあたり私たちにできるのは、愛着と呪詛の境界線がかぎりなくグレーであるという事実を冷静に見つめること、もし「深い疲労感」を与える人間がいたら、その人は「呪い」をかけているのだと知ること、そして、できうるかぎりすみやかにその関係から離脱すること、これに尽きると思う。

情報とは「水位差」としてしか存在していない。情報の「利益」とは、その速報性において「優越する者」が「出遅れた者」から「何かを奪い取る」かたちでしか存在しない。

私の見るところ、人間社会における差別化の指標は「政治権力」「富」「情報」という順で歴史的に推移している。/古くは「権力」の有無が人間たちを差別化した。近代に至って「富」の有無がそれに代わり、現代に至って所有する「情報」の多寡が差異化の規準となった。

作者によると「ウェブサイトに毎日書き散らかした日記風エッセイのなかから編集者がいくつかを選り出して、それをまとめて本」(あとがきより)にしたものの一冊(他には『ためらいの倫理学』『「おじさん」的思考』id:kogo:20041113『期間限定の思想』など)。1000字程度の短いエッセイから、10ページを越えるものまで。読んでいて楽しい。本の形で読むのは、Web日記を読むのとはまた違った感覚が働くみたいだ。