KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

マ・プレム・シュンニョ『和尚と過ごしたダイアモンドの日々』

和尚と過ごしたダイアモンドの日々―ザ・ニュー・ダイアモンド・スートラ (OEJ books)

和尚と過ごしたダイアモンドの日々―ザ・ニュー・ダイアモンド・スートラ (OEJ books)

だれも理解しないことを承知のうえで、来る日も来る日も人々に語りかけるというのは、なんということでしょう。私たちの顔を見れば、私たちが白昼夢にひたっており、聞いたことの一パーセントしか理解できないことが明らかなのに、それでも語りつづけるというのは、なんということでしょう。三十年間、和尚はずっと語りつづけました。一日に五回の講話をしていたこともあります。

私が知っているのは和尚だけですが、光明を得た師のそばにいるという体験には、その師がだれであれ、共通したものがあるはずです。そしてそのひとつは、師がすることは予測できないということでしょう。ただ確実なのは、弟子の目を覚ますためになら、師はなんでもする、ほんとうになんでもするだろうということです。

存在への私の信頼は、全面的だ。存在を信頼しない人々が、金を信頼する、神を信頼する、あらゆるたぐいの愚かなものごとを信頼する。

私たちの和尚とのつながり、そして和尚を通じてのお互いのつながりはひじょうに深いものなので、私たちは一体になり、ともに動いているのだと思います。それは時空の隔たりとは無関係です。和尚のとなりに座っていようが、一万マイルのかなたにいようが、弟子と和尚との間の隔たりは、その人の瞑想にかかっています。

……ひとつ覚えておくように。質問するときには、どんな答えが返ってきてもいいように覚悟しなさい。自分が気にいるような答えを期待してはいけない。さもないと、なにも学べないし、成長も不可能になる。ある点についてまちがっていると言われたならば、それを見つめてみるといい。私はあなたを傷つけようとしてそういったのではない。私は本気でそう言ったのだ。

あなたが映写機だ、あなたがフィルムだ。だからあなたは、別のスクリーンにも同じものを投影することになる。スクリーンはほとんど重要ではない。いったんこれを理解したなら、生のすべてを幻影として、マジック・ショーのようなものとして見られるようになるだろう。そうなれば、すべては内側のことになる。問題は外側にあるのではない。外側ではなにもしなくていい。だからまず人は、問題は自分自身であることに気づかなければならない。それに気づいたなら、問題全体の見えかたが変わり、そしてはじめて、それに正しく対処して解決することが可能になる。さもなければ、あなたは間違った方向ばかり見ていることになる。そうしたら、いかなる変化も不可能だ。

これは読むのに長い時間がかかった。でもそのおかげで、和尚のプーナでのコミューン、アメリカのラジニーシ・プーラムと迫害、厳しいワールドツアー、プーナへの帰還の様子がどんなものであったかをおぼろげながら知ることができた。1980年代にこれらのことすべてが起こっていたんだ。そのときには私は何も知らずにいたけれども。