KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

パトリシア・クラントン『おとなの学びを拓く』

おとなの学びを拓く―自己決定と意識変容をめざして

おとなの学びを拓く―自己決定と意識変容をめざして

成人教育のもう一つの重要な概念で、デューイの研究との関連で強調されているものに「ふり返り」がある。最近、成人教育者たちは、学習者による自己のふり返りや批判的なふり返りを、おとなの学習における中心概念として強調し始めている。この考え方の原点は、アージリスとショーンの影響力の大きい著作に求められるかもしれないが、これより五十年前にデューイは「その人の信念の根拠を評価すること」と記していたのである。この記述は、今日の研究の中で言われている批判的なふり返りのプロセスの本質をなしている。

ノールズは著作の中で、自己決定型学習は学習者の以下の行為を含むものであると述べている。すなわち学習課題を設定し、学習課題を満たすための方策を練り、学習計画を実施し、学習課題の達成を明らかにできる証拠を集めるといった行為である。

すべての教育者は、学習者が表明しているニーズと真のニーズとのあいだの矛盾に直面する。「どうしてこんな理論が必要なのかわからない、それをする方法を知りたいだけだ」という学習者のように単純な場合もあるし、抑圧的な文化の中にいる学習者のように複雑な場合もある。すべての学習者は、自分自身の背景や経験や価値観の範囲で学習に取り組んでいる。表明しているニーズにだけ注目すると、その範囲を広げたり壊したりしにくくなる。

自己決定性はおとなの特性とは言えない。つまりそれはおとなの安定した特性ではなく、たとえば心理的タイプのようなものでもない。学習は「プロセス」であり、自己決定型学習はそのプロセスを経験する方法の一つなのである。どんな種類の学習の場合でも、程度の差はあれ、誰にでもそれを始める能力があるように、一人ひとりには多かれ少なかれ自己決定型学習に取りかかる能力があると言える。自己決定型学習は他者とかかわり合うプロセスであり、その他者の一人が教育者なのである。

最近の研究において明らかになったのは、教育者が自分の実践を、特定の状況にあった技術(テクニック)を選択することであると、単純に定義することはできないということである。教育者が学習者との取り組みをおこなうためには、自分自身が持っている哲学と信念を自覚しながら、より広い見解に立った専門的な実践を展開すべきなのである。ブルックフィールドは、つぎのように述べている。「技術とはつまるところ、より広い目的に到達するための手段にすぎない。技術が、奉仕する対象になる人間的、社会的目標を排除するほどに崇拝されるならば、私たちは手続きという最新の魔術に翻弄されるようになる……」。

この本はかなりコアな本だった。これを読む前にノールズの本を読むべきだったかもしれない。成人教育が、自己決定性の獲得と意識変容をめざすもの(その先には社会変革まで)であることが、難解だが伝わってくる。Self-directednessは、鍵概念だと思うので、文献探索の山にさしかかってきているところだと思う。

教育心理学の方では目新しかった、ショーンの反省的実践家(http://d.hatena.ne.jp/kogo/20020422/p2)という考え方も、この本の文脈の中で出てくると自然という感じになる。ペダゴジーでの反省は「この教え方でよかっただろうか」という技術の段階でごまかせるのに対して、アンドラゴジーでは「これを教えるべきだったろうか」というレベルまで深くならざるを得ないからだろう。IDプロセスの一つであるニーズ分析にしたって、「表明されていないニーズ」まで掘り下げなくてはならない。そして、学習者に自己決定性を教授するという(ラッセル型の)パラドクス。しびれる。