KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

プラカシュ、エステバ『学校のない社会への招待』

学校のない社会への招待―“教育”という“制度”から自由になるために

学校のない社会への招待―“教育”という“制度”から自由になるために

人類の多数派が自分たちらしくあるために教育なんていらない。他の近代的「ニーズ」と同様、教育が欠かせないという観念はそれぞれが行う事業によって特権化されている「人間を無力化する専門家集団」がつくりあげたものです。溺れたときや吸える空気がなくなったとき以外に、人は息を吸う必要なんてない。

筆者たちは、教育が問題の解決策なのではなく、まさに問題そのものであることを主張します。一般には、教育は善であり、ニーズに応えるものであり、人間の権利の一つであると捉えられていますが、これをもう一度考え直す機会をこの本は与えてくれます。

つまり教育、とりわけ義務化された学習とその場所、学校の出現によって人は何を奪われたか。学習という機能を切り売りされ、消費の一つとして強制的に与えられたときに何が起こるか。

私は最近チェロを弾き始めた。チェロが好きで、いつかうまく弾けるようにと決意し、日に何時間も練習している。人は私がしていることを『チェロを弾くことを学んでいる』というだろう。しかしこの表現はわれわれの観念に、私がしていることには、一、チェロを弾くことを学んでいる、二、チェロを弾いている、という二つの別々の過程が存在するかのような奇妙な考えをもたらす。(中略)もちろん、これはナンセンスである。二つの過程があるのではなく、過程は一つしかない。われわれはある何事かを行うことによって学ぶのである。他に学ぶ方法はない。何かをやり始めたときに、それをうまくやってのけることはおそらくできないだろう。しかしやり続け、自分が必要だと思ったときに見習い、貴重な助言をもらえる人がいて、そしてできるときにはいつもそうするようにするならわれわれは上達する。ときにはかなり上達することもあるだろう。それは終わることのない過程である。

人の尊厳や能力が、卒業証書なしでは受け付けられないような「学校化された社会」になったときに、人は教育を強制的に必要とするようになるのです。そのように役割を与えられた教育は結果として不平等を拡大していきます。それが、教育が解決ではなく、問題そのものだということの意味です。教育という問題を解決しなければなりません。

われわれははテクノロジーが社会をもっとシンプルで透明にするために活用しうる新しい時代の諸条件を設定することができる。再び人間が事実とは何かを知り、己の人生を切り開くために道具を使うことができるように。つまり学校制度をなくし、文化を非学校化することは可能なのです。