KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

『街場の教育論』

街場の教育論

街場の教育論

2007年度の神戸女学院大学の大学院授業「比較文化・文学」の講義録。全11講。

  • 「今ここにあるもの」とは違うものに繋がること。それが教育というもののいちばん重要な機能なのです。
  • 「学び」というのは自分には理解できない「高み」にいる人に呼び寄せられて、その人がしている「ゲーム」に巻き込まれるというかたちで進行します。
  • 今、自分に足りないもの、自分ができないこと、自分が知らないこと。その欠如や不能ゆえに、現に困惑していること。それをきちんと言葉にしないと、「支援を求める」ということはできません。これはむずかしい。「ないもの」を言うんですから。
  • 教師がひとりの個人として何ものであるか、ということは教育が機能する上で、ほとんど関与しない。問題は教師と子どもたちの「関係」であり、その関係が成立してさえいれば、子どもたちは学ぶべきものを自分で学び、成熟すべき道を自分で歩んでゆく。極端なことを言えば、教壇の上には誰が立っていても構わない。
  • 「学ぶ」仕方は、現に「学んでいる」人からしか学ぶことができない。教える立場にあるもの自身が今この瞬間も学びつつある、学びの当事者であるということがなければ、子どもたちは学ぶ仕方を学ぶことができません。
  • でも、そのような「クリエイティヴで、パーソナルな仕事」というのは、実際にはほとんど存在しません。九九パーセントのビジネスは集団作業だからです。
  • その編集者の方はどなたも、これまでに数百人の面接をしてきた経験者たちです。彼らが異口同音に言ったのは「会って5秒」で合格者は決まるということでした。受験者がドアを開けて入ってきて、椅子に座って、「こんにちは」とあいさつをしたくらいところで、もう○がつく人には○がついている。残り時間は、×をつける人に「どうやって気分よく退室していただくか」のサービスの時間なのだそうです。
  • わかりますよね、私の規準。実際にゼミを始めたときに、ゼミの対話的、互恵的な雰囲気を壊すような学生ははなから採らないということです。その学生が個人的にどれほど知力に優れていようとも、ゼミの全員が気分よく勉強する妨げになる可能性があれば、私は採りません。……ゼミは受験校の進学クラスではありません。ここはすでに「実社会」の先駆的形態です。ここは競争の場ではなく、協働の場なのです。
  • 「マネージする」権限を差し出すということは、要するに階層組織の下層に釘付けにされるということを意味します。「誰にも迷惑をかけない代わりに、誰からも迷惑をかけられたくない」という人は、ある日気がつくと、狭い穴ぼこにうずくまっている自分に気がつくことになるのです。気の毒だけど。
  • 言いたかありませんが、子どもたちが働くモチベーションをなくしたのも、モジュール化された仕事しかやりたがらないのも、擬似家族的な企業体質が大嫌いなのも、自分の能力についての外部評価を受け入れないのも、これは私たち日本人が打って一丸となって国策的に推進してきたあの「グローバリゼーション」の輝かしい成果でなくて、何なのでありましょう。