KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

オトナはみんな応用問題を解いている

早稲田大学人間科学部eスクールが今年、3回目の卒業生を出した。これが、日本の大学に与えるインパクトは大きい。「学びのデザイン」がご専門の向後千春先生に、これからの学びについてお話をうかがった。

2003年eスクール設立当時、アメリカはともかく、日本ではeラーニングなどニーズがないと言われていた。社会の一線で働きながら、大学で学ぼうなどという人はいないだろうと思われていたのだ。しかし選択肢を提示してみたら実は学びたい人がいた。そうした新しい「学び」のニーズを掘り起こしたことが、eスクールによる変革のひとつである。

知識の転移が起きてはじめて学びが成り立つ

もうひとつは、学びの意味を考えるきっかけになったことだ。ただ知識を学ぶだけならテレビ放送でいい。しかし知識を与えられることで学べることはごく少ない。知識を自分の問題にあてはめて考え、実際に使ってみる「知識の転移」が起きてはじめて、学びが成り立つ。そのためには、仲間とのディスカッションが必要になる。

これは実は、教室でも同じだ。知識を与えるだけの講義なら、むしろビデオを作って見せておいて、先生はあいた時間でグループワークを設計し実施したほうがはるかにいい。

知識を与えるという意味からの、eラーニングか対面の授業かという議論は、デリバリの方法を扱っているにすぎない。教育工学が解明してきたことによれば、デリバリの違いによる有意差はほとんどない。ビデオでも肉声でもラジオでも同じだ。それは教育メディア研究の長い歴史の末に出た、従来の教育手法にとって、ある意味、意外な結果だった。

人は、まず知識を体得する。次に自らのプロセスの中で与えられた知識をあてはめる。自分の問題を解決するのに使わなければ、その知識はすぐ忘れられてしまう。学んだことを使うのが「転移」の段階だ。

使っていくことによって、その人の「心」が変わり、生活の方法や考えが変化していく。「学び」のゴールでは、こうしたことが実現されてほしい。これには他者とのディスカッション、つまりチームで学ぶ、コミュニティの中で学ぶことが必要だ。どれほどいい先生を連れてきても、一方的な知識伝達型の講義では、ここまでいくことはできない。

学ぶことは楽しい 楽しくなければ使わない

学ぶことは楽しいはずだ。自分の問題を解決できること、自分が興味があること、役に立つと感じること、これらはみな楽しい。楽しくなければその知識を使わない。楽しさは、学びの重要な要素になる。そして楽しいと感じることは、人によってそれぞれ違うのだ。

古い教育工学では、効率的、合理的に学ばせることを目的として、共通の教育ゴールを設定し、そのゴールを達成するためのプロセスを設計していた。

しかしこれからはそうではない。ある教材を使って学んだことの成果が、人によって違ってよい。ゴールが違ってこそ、集団で学ぶことの意味が出てくる。とくにオトナの学びは、そうあるべきではないだろうか。

学びのゴールはひとつではない

伝統的な「教材」という概念におさまりきらない教材や、新しい学びのプログラムのなかには、たとえば「これを学ぶ」と明確に定義できないものがあるかもしれない。ある人にとってはリーダーシップを、ある人にとってはコミュニケーションを、ある人にとってはPDCAを学んでいるかもしれない。しかしオトナはみな、いわば応用問題を解いている。コミュニティのなかでの役割や位置づけが違う人同士が学ぶのだから、ゴールが違っていいはずである。

学ぶ時間と場所を与えられている若い人は学校に通えばいい。本当の学びはそのあとから始まる。

またオトナばかりでなく、学校というシステムに通えなくなっている子供たちが増えている。これから、その数は否応なく増加するだろう。eラーニングは、こうした、学び手の多様なニーズに応える手段として、むしろ教育の主流とならざるをえない。

インターネットの普及により、単純に知識を獲得していくことの意味が、どんどん小さくなりつつある現在、これは希望や推測というより、ひとつの決定とも私には思えるのだ(談)。