KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

大丈夫! あなたは書ける。

何を書くにしても、自分の無能の証明として書けばラクだ

論文や本の原稿を書いていて、ときどきこんなふうに思ったりする。なんだか自分の無能の証明として、これを書いているんじゃないか、と。こんなに当たり前にみえることがいまだにきちんと証明できていない。原稿を書くのは、この「できていない」ということを公表するためなんじゃないか。

まあ、ネガティブだけど、こんなふうに考えることの御利益も、あることはある。それはなにを書くにしても、自分の無能の証明として書いていればラクだということだ。逆に、自分が有能であることを証明しようとすると、怖くなってしまって、書けなくなるんじゃないだろうか。書けないで困っている人は、自分が有能であることを証明しようとしていないかどうか、自分で振り返ってみるといいかもしれない。

1日のはじまりに原稿を書き、そのあとはすっきりとした気分で1日を過ごすことができる

振り返ってみると、2014年は本を3冊も出版することができました。5月に『200字の法則 伝わる文章を書く技術』、8月に『教師のための教える技術』、そして10月に『コミックでわかるアドラー心理学』を出版することができました。

毎日のように原稿を書いていました。とはいっても、私は一度にたくさん書くというタイプではありません。1日に、多くても、千文字くらいしか書けないのですね。書く時間帯は必ず午前中です。

そんなふうにして毎日書き続けます。もちろん書けない日もあります。出張に出ているときは書けません。どうやら私は、同じ場所、同じ机、同じパソコンでないと書けないようです。それでも、いつもの机に向かえるときは千字分書けます。

これが習慣になると、書かないでいるとなんとなく落ち着かない気分になります。こういう状態になるとナイスです。1日のはじまりに原稿を書き、そのあとはすっきりとした気分で1日を過ごすことができるのです。そうすると、次の日も苦労なく書き始めることができます。こうして良いサイクルが確立したのです。

書き出しが一番難しいって? 大丈夫!

本の原稿を書くにしても、ブログ記事を書くにしても、論文を書くにしても、モーニングページを書くにしても、

 「書き出しが一番難しいんだよ! これさえ突破できれば、あとはなんとかなるんだけど」

といってつい書くのを先延ばししてしまう。

でも大丈夫! なぜなら、

どんな書き出しをしたとしても、あなたは必ず重要なところを書くに至るから。つまり、どう始めたとしても、最後は一番言いたいことにつながるってことだ。だから、どんな書き出しであっても、それを気にせず、書き続けることだ。

この歳になって気づいたことですけれども、「まとまった時間」はもう永遠にやってこないのです

この歳になって気づいたことですけれども、「まとまった時間」はもう永遠にやってこないのです。

私たちは、「まとまった時間」をあてにして、いつか大きな仕事をやるぞと思い込んでしまいます。大きな仕事というのは、日々のルーチンワークや雑用以外の仕事です。たとえば、本の原稿を書くとか、論文を書くとか、テキストを作るとか、ちょっと決心しなければできない仕事のことです。

しかし、大きな仕事をやるべき「まとまった時間」は永遠にやってきません。それは幻想なのです。買ったときには真っ白だったスケジュール帳は、すぐに埋まっていきます。次々と入ってくる予定をどの日にいれようかと苦労するくらいです。

なのに、まだ「まとまった時間」がいつか取れるはずだという幻想が私たちにとりついています。それは永遠に来ないにもかかわらず!

とすれば。

「まとまった時間」は永遠にやってこない、とすれば、私たちができることは、大きな仕事を小さく分割して、日々のルーチンに埋め込むしかないのです。これが大きな仕事につながっていることを忘れるくらいに小さなルーチンに分割して埋め込むのです。

毎日歯を磨くのと同じくらいのルーチンにする。そうすれば、いつか大きな仕事が成し遂げられるでしょう。

「まとまった時間」というのは、毎日のルーチンのための時間が集積したものにほかなりません。

書くことのおもしろさもまた「挑戦/スキルバランス」に支配されています

「文章の書き方」の本の草稿ができてから、編集の人とやりとりをして、修正したり、加筆したりしています。私にはこうしてやりとりをしながら書いていくのがあっているようです。原稿を書くことのしんどさのかなりの部分は「独りで書く」というところにあるような気がします。

編集者とやり取りをしながら、「ここはよくわからないので説明を」とか「ここは具体例を挙げてください」などの注文を受けることで、よいものができあがっていくような気がします。

にもかかわらず、最初の草稿は「独りで書く」しかないわけです。それができないと編集者も、その本の全体像が見えないのですから。だから独りで書くことに、耐えて耐えて最後まで書くことが大切なのですね。でも、たいていは、仕上げるところまでいかずに、めげてしまうのです。自分で書きながら「やはりもう少し待とう」と思ってしまうのです。でも、待ってしまってはいつまでも書けないのです。

そのときにしか書けないのです。これは本でも、論文でもなんでもそうなのだと思いますね。書こうと思ったら、最後まで書くべきです。そうでなければ、いつまでも書けないでしょう。

書くことは簡単ではありません。簡単に書けたら、おもしろくありません。書くことのおもしろさもまた「挑戦/スキルバランス」に支配されています。難しすぎて書けなければムリゲーです。でも、自分が書けるところの少しだけ上を目指して書けば、おもしろいゲームになります。

書くことをフローにしましょう。

締切があるからこそ自由になれる

今の時期、卒論やら修論やらで「締切の季節」である。私の人生も他人にひけをとらず、たくさんの締切に追いまくられてきた人生であったと思う。そこで、心がけたことは「締切だけは破らない」ということである。さらに言えば「内容なんて二の次、だけど締切だけは守る」ということである。ひどい話である。内容よりも締切を重視してきたのであるから。本当に申し訳ない。だけどそれが真実である。

特に、原稿や論文を書く仕事は、いくらやってもパーフェクトということがない性質の仕事である。だから、締切までに「形」にするということが一番大切なのである。逆に言えば、締切がなければ、原稿は「形」にならない。いつか書こうと思っている原稿は「永遠にできない」。これは、これまでの自分の経験から実証済みのことである。

だから、締切があることが本当にありがたい。締切がなければ永遠に形にならない原稿が、締切までには必ず形になるのだから。いつでも私は、自分に締切を設定してくれる人を探している。締切を設定してくれる人がいれば、必ず自分は原稿を書くだろうということを確信しているからだ。

だれも締切を設定してくれないときはどうするか? そのときは,自分自身で自分に締切を設定しなくてはならない。しかし、それはたいてい失敗する。自分との約束は守られないことになっているからだ。だから、誰かに締切を設定してくれるように、その人に持ちかけるのだ。

締切があるおかげであらゆる仕事は達成される。そしてそのおかげで,自分は自由に生きられるのだ。もし締切がなければ、いつでも「あれもしたい、これもしたい、だけど何も完成していない」という苦しみから逃れることができないだろう。

「半分書ければ8割書けた」の法則

事典の原稿を執筆中.8,000字指定の項目なので,ちょっと大がかりだ.でも,もう4,000字書けた.ちょうど半分だ.私の中では「半分書ければ8割書けた」の法則があるので,だいぶ気が楽になった.

「半分書ければ8割書けた」の法則には,根拠がある.文章は,書けば書くほど,次に書くことの選択肢が狭まってくるので,どんどんスピードアップされるのである.オセロゲームをやっていて,最後の局面になると,手を打つ場所は限定されているので,それを勘定しながら打つだけの作業になるのと似ている.

だから,文章も半分まで来れば,残りの文字数で書くべきことはかなり限定されてくる.あとは,どの材料を入れて,どの材料を捨てるのかということだけを決断していけばいいだけだ.苦しいのは,前半の3割くらいの所だ.構成をどうしようか,どの材料を入れようかとあれこれ考えるのだけれども,選択肢がたくさんあるので迷うわけだ.でも半分を超えればもう大丈夫o(^▽^)o.