KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

ごまかし勉強とauthenticな学び

日心の「学習から学びへ:ごまかし勉強とauthenticな学び」のシンポジウムを聞く。

藤沢伸介さん(跡見女子大)の「ごまかし勉強」という主張は、昔は正統派の学習が今はごまかし勉強になっていること、しかもごまかし勉強がシステム的に働いていることを指摘する。正統派の学習というのは、内容関与に動機づけられた充実指向、訓練指向、実用指向の勉強のことで、教えられた学習内容を越えて、豊富な学習要素が獲得されていたという。一方、ごまかし勉強は、提示された学習内容をいかに効率よく暗記するかが焦点となり、先生も試験範囲を限定し、教えることにより、良い点を取らせようとする過保護になる。この結果、労役としての学習が身につき、暗記主義、物量主義、結果主義の学習になる。

というのだが、うーん、どうかね。

正統派の学習では、先生が試験のヤマを言わなかった、だから生徒はそれを推測し、当たったり外れたりしながら、何が重要なのかを学んだ、というのだが、それはIDが批判するところの「当てもの学習」の形態なんだよね。教師中心の学習では、教師の頭の中を推測することが生徒の課題だった。それは先生の独裁時代の形態だった。今、「ごまかし勉強」と呼ばれるものは、教師の独裁が民主化された結果だと言える。何がテストされるのかが明らかにされ、それを目標として進むのだ。それはごまかしでもなんでもない、民主化された(つまり学習者中心主義をうたった)学習の正統的な形だ。

もし暗記主義はいかんというのであれば、暗記だけでは良い結果を得られないようなテストをすればいいだけの話ではないか。そこをさぼっているからだめなんじゃないか。暗記すればできるようなテスト問題を出しておいて、暗記するななんて言ったって、それは通らないでしょう。

(追記)佐伯先生の話は、私が遅れて来たために聞き逃しました。残念。

教科書の作りは、事実の羅列

西林克彦さん(宮城教育大)は、教科書の作りは、事実の羅列であって、そこには、理論も理屈も概念も何もないと、痛烈に批判する。たとえば光の透過、吸収の単元では、最後に温室の例がでてくるのだが、そこに至るまでの事実の羅列では温室がどうして暖まるのかはどう考えても出てこない。

日本の教科書がダメなのは、本当に同感。インストラクショナルデザイナーの出番なのだが。

そう考えると、ごまかし勉強を促進しているのは、だめな教科書とだめなテスト問題なんじゃないかね。佐藤学さんが「今の教員は、むしろ昔の正統派の学習をさせたがっているんだ」と言っているのを本当に信じるとすれば。

全体として目的論

「臨床の知・統計の知・教育の知」というシンポジウムを聞く。話題がでかいのでとらえどころがないが、部分的に参考になることはあった。

南風原朝和さん:階層的線型モデル(HLM)はBBS討論の分析なんかに使えそうだ。個人内の変化、個人レベルの変化、集団レベルの変化を各レベルごとに見ると同時にレベル間の交互作用を考慮する方法。

子安増生さんの問題意識はかなり共有できる。教育の研究で査読者から「よりよい方法がわかっているのに、統制群を設けるのは倫理的に問題がある」とけちを付けられたそうだ。それに対する反論。実験群が常に良いとは限らない。もし良い方法だけが教育現場で許されるとしたら、教育は常に縮小再生産の道をたどるしかなくなる。というのだが、わかってもらえるだろうか。

下山晴彦さん:臨床ではケースフォーミュレーションという方法論がある。証拠から仮説を立て、仮説から介入をし、その効果を評価する、というものだ。教育も同じだろう、と。

指定討論で出てきたのは、戸田山和久さん。あの『論文の教室』の著者。こんなところでお目にかかれるとは。

彼はまず「心理学者は古い科学のモデルにこだわっておられるようですね」と挑発する。こういうことだ。古い科学のモデルでは、主張を正当化するのが方法だった。じゃあ、その方法を正当化するのは何かという話になると無限後退してしまう。そこで今の科学のモデルは、3項のバランスなのだ。その3項とは、「知識・方法・目的」だ。目的に照らして、その方法や知識が有効なのかどうかを査定するわけだ。

これはガーゲンも言っていることだな。よく考えると、今の科学は「全体として目的論」なのかもしれないよ、これは。でもこれも考え直すとごく自然なことだ。目的というのは舵のようなものであって、それがなければ、方法というエンジンがあっても無軌道になってしまうということだ。そこを人類は反省してきたのでしょう?

全体として、感じたことは、「法則定立・個性記述」の話やガーゲンの話も出てきて、私が教育工学会論文誌にレビューした方向性はそこそこ当たっているようだ。そこで引用した川喜田二郎さんも、質的心理学会に登場したらしい。KJ法は偉大ですよ。

シンポジウムで質問はでなかったのだが、やまだようこさんが指名されてコメントした。「私は個性記述的な方法論を採っていますが、一般化することを捨てているわけではないですから」と表明。へえ、そうなんだ。