KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

鷲田小彌太著『パソコン活用思考術』、ベッカーとリチャーズ『論文の技法』

パソコン活用思考術

パソコン活用思考術

論文の技法 (講談社学術文庫)

論文の技法 (講談社学術文庫)

ゼミや卒論指導で学生と話していると、よく「いま考えているところです」とか「考えてはいるのですが」と言う。ああ、そうか、と思って安心していると、次の週もまた、何の進展もないのだ。それでも本人は「考えているんです」と言い張る。しかし、いくら本人が考えているとはいっても、証拠がない。私はその証拠を見たい。その証拠とは、書いたもののことだ。

テーマを決めたら、それについて考えよう。考えるとは、つまり、書くことである。書かなければ、考えたとは認めない。そういう約束で出発しようと言うことだ。

以下の文章の中では、次の二冊の本から適宜引用している(ということは、今回の文章は、これら二冊の本の紹介にもなっているわけだ)。一冊は、鷲田小彌太著の「パソコン活用思考術」(学習研究社、1996、1300円)であり、もう一冊は、ベッカーとリチャーズ著の「論文の書き方」(講談社学術文庫、1996、940円)である。

書かなければ時間の無駄

なぜ、書くのがいいのかというと、書かないで、ああでもない、こうでもないと考え続けることは、時間の無駄であり、堂々めぐりをしていることにほかならないからである。書かずに、「私は考えている、それも深く考えている」といくら主張しても、第三者は本当にその人が考えているのかどうか確かめるすべがない。第三者は、書かれたもの、あるいは話されたものを受け取って初めて、ああこの人は考えている、と判断できる。鷲田は、はっきりと、こう言っている。

頭の中で、ああでもない、こうでもないという段階にあるかぎり、思考ではないのだ。そこにとどまる限り、どんなに深刻さを装ったとしても、思考の水準には届かないのだ。考えてはいないのだ。むしろ、考えることの反対をやっているにすぎない。/だから、的確に書くことが、思考力をつける最良の方法だと言いたいのである。(p.69)

材料なしで書く

まず書き始めるとは言っても、何か本を探してそれを読まなくては書けない、という人がいるかもしれない。また、材料がなくては書けないではないか、という人があるかもしれない。しかし、そんなことはない。あなたの頭の中が空っぽでない限り、書くことはできる。そして、資料やデータが足りないと思ったら、それを読みながら書くのである。つまり、書くために読む。これが、一番よい読み方であり、批判的な読みができる。ただ、漠然とした目的のために、あるいはほとんど目的なしに本を読むと、内容はほとんど頭には残らないことをたいていの人は経験しているだろう(娯楽のための読書はこれでいいのだが)。鷲田は不十分な状態でこそ書き始めるべきだと、次のように言う。

材料が少々、あるいは、だいぶ足りないなと思っても、とにかく書き始めるのがいいのだ。書き始めの時期は、締め切りの時期によって自ずと決定される。/こういうのは乱暴ではないのかという人は、書くことの意味がまだ少しもわかっていない。あるいは、ことをなすということの意味を知らないのである。/結婚するとき、相手を全部完璧に知って、はじめて決断するだろうか。そんなことはない。この人ならという核心めいたものがわずかであれば、(それにすがるような気持ちで)決心するのである。書き始めるのも同じで、レジメができれば書き始めたほうがいい。(p.103)

また、ベッカーとリチャーズも次のように断言する。

資料なしで草稿を書くことは、これから議論したいことを明確にしてくれますし、どんな資料を手に入れるべきかを明らかにしてくれるのです。このようにして、書くことが、あなたの研究計画を作り出してくれるのです。(p.48)

頭に浮かぶことをなんでも書く

書きながら、事実を知りたい、データを知りたい、と思えば、本や図書館の世話になっていいわけだが、あまり早い段階で、本からの知識を頼るよりも、できるだけ自分の力で、とにかく頭に浮かぶことをなんでも書くようにしたほうがいい。ベッカーとリチャーズは次のように言っている。

アウトライン、ノート、資料、本、そして他のどんな助けをも参照することなしに、頭に浮かぶことをなんでも、できるだけ早くタイプして、書くということです。こうすることの目的は、あなたが何を言いたいのか、そのトピックあるいはプロジェクトに関するあなたのこれまでの仕事全てで、すでにあなたが信じるようになっていることは何なのかを見つけ出すということにあるのです。(p.110)

この段階で書かれたものは、生まれたばかりの赤ん坊のように、繊細でか弱いものだ。だから、それを友だちや先生に見てもらうことはいいことだとしても、見せる相手は選ぶべきだ。その人の批判精神があまりにも旺盛であると見て取れば、生まれたての文章を見せるのは躊躇したほうがいい。そういう人ではなく、生まれたてのアイデアをどう育てたらいいかということにアドバイスをくれる人を、選んで見せるのがいい。

たくさんのアイデアの中からいいものが見つかる

掃いて捨てるほどの失敗作の中から、いいものができてくる。これはどんな場合でも真実だ。一発勝負の傑作は、絶対にあり得ない。だから、たくさんのアイデアを出し、たくさんの文章を書く。その中からいいものができてくる。たとえ、自分が見ても明らかに失敗だったり、カスだったりしたとしても自殺する必要はないのだ。失敗作を山のように書き、ひとつの傑作をものにすればいいではないか。ベッカーとリチャーズは写真を例に出して、次のように言う。

私は、写真専攻の学生が習うことを、つまり、写真家がすることができる最も重要なことは写真であるということ、そして、数千枚の悪い写真を撮っても、数枚のよい写真を撮る限り、そして、よいものを悪いものから区別できる限り、不名誉なことではないということを学びました。・・・これは、私の文章作成にも伝わっていったのです。頭に浮かぶどんなつまらないことでも書き留めることを、今まで以上に意欲的にするようになりました。というのも、私はいつでも自分が好きでないもの、あるいは、使えないものを取り除くことができるのだということを、写真を撮ることとの類似から知ったからです。(p.197)

当面のテーマを決めたら、それについて書き始めよう。それがテーマについて深く考えるということなのだ。