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工藤順一『国語のできる子どもを育てる』

国語のできる子どもを育てる (講談社現代新書)

国語のできる子どもを育てる (講談社現代新書)

 先月出版された講談社現代新書の一冊(660円)。これは理論と実践が噛み合ったすばらしい本だ。著者の工藤順一は、作文に関する心理学的研究をよくフォローしているようで、控えめながら、研究者や研究書の引用がときどきでてくる。

 本の前半で紹介される作文指導法は興味深い。「コボちゃん」という4コママンガを文章に翻訳するという作業を通じて、150字くらいの短文を書く技能を身につけさせる。マンガという材料を使うことで、「書くこと(内容)がない」という最初のつまづきを除き、自分の知っていることを書く練習をする。

 文章を書く基本といえる短い文章を書けるようになったところで、文章を構成する技能を身につけさせる。つまり150字程度の文章をひとつの段落として、いくつかの段落を構成するという技能だ。その構想を立てるということをやりやすくするために、「プロセス原稿用紙」というものを考案して利用させる。

 プロセス原稿用紙にはテーマから連想されることがらを自由に書いていく。さらにそれから思いつくこと(それに対する意見、詳しく説明、反論、発展など)を書き込んでいく。それが出尽くしたところで、その中の要素から何と何を抜き出して、どのような順番で書いていくのかを設計する。これは今まで「マップ」としてさまざまな形で利用されている構想段階の試行錯誤をうまく形式化したものだと気がつく。

 プロセス原稿用紙で文章の流れを作った後に、さらに「アウトライン原稿用紙」という本文を書く欄をつけ加えたものを使う。これには「テーマの変化」の欄や「要約」の欄、「書きたい事柄メモ」の欄があり、それに本文の欄が続いている。アウトラインとはいっても、階層型のそれではなく、むしろ自由なマップ(要素を自由に線でつないだもの)の形式を取っている。こうした工夫された原稿用紙については実際に本を見ていただけばイメージがよくわかる。

 こうした工夫された原稿用紙は大学生にも有効かもしれない。食指が動く。

 本題とは、はずれているところだが、次のような文章を読んでドキリとする。

作文のマニュアルには日記を付けることが安易に奨励されています。ところが、子どもたちに言わせると、毎日同じような生活をしているのだから、書くことがないのだと、無理もないことを言います。まったくその通りで、日記が付けられるようだったら書くことの学習なんかしなくてもよいわけで、書くことの学習のために日記を付けるなんて発想が逆転しています。つまり昨日は今日とは違うと書き分けられることが、この場合の書くことであり日記を付けることですから、毎日続く同じような生活の中にそれだけの視点の違いを見つけだしていくことは書くことの上級者にしかできないことでしょう。あくまでも書けるからこそ日記も付けられるのであり、日記を付けるから書けるようになるのではありません。(p.19-20)

 なるほど確かにその通りで、今年の前期の授業で日記を書いてもらって、ひとつわかったことは、「毎日続く同じような生活の中にそれだけの視点の違いを見つけだしていくこと」の厳しさと困難さであった。そしてそれができない人は、最初から最後まで「書くことがない」ということで苦しむのだ。あるいは、苦しむことなくそんなものなのだと納得してしまい、変化がないのだ(たとえば、「昨日と同じ」という日記!)。

 この困難さに対して、有効な介入をすることができなかったのが、授業の最大の反省点だ。しかし私は著者の「日記を付けるから書けるようになるのではない」ということには半分は同意したくない。日記をそういうふうに使うこともできるのではないかという可能性とその方法を探している。「昨日と同じ」という日記に苦しむことがそのきっかけになると思うのだが。