KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

丸谷才一『思考のレッスン』

思考のレッスン (文春文庫)

思考のレッスン (文春文庫)

 出版されたばかり(9/30)の丸谷才一「思考のレッスン」(文芸春秋、1999、1238円)を読む。雑誌「本の話」に連載されたものをまとめたものだが、この雑誌のことは知らなかった。

 読んでいくと、思わず膝を打つという感じのことが多い。とりわけ次のような部分は「あれ、自分もこんなことを書いていたなあ」という感じ。不思議。

テニスのラリーにたとえるとわかりやすいかもしれません。テニスの試合で甲と乙が戦う。もちろん二人は勝敗を争うわけだけれど、ゲームを成立させ、続行させるという点では協力しあっているわけですね。好ラリーの応酬があれば、試合はますます盛り上がる。その呼吸で文章も書いていくとうまく行くような気がするんです。(p.263)

 10/7の日記で私はこんな一節を書いた。

なぜこんなことを書いているのかというと、バドミントンをやっていてわかったのだが、対戦型スポーツというのは「競争」ではないということなのだ。逆に「協力」なのである。つまり、このコートの中に打ち返すという共通認識を相手と共有して、できるだけ球をつなげるという「協力」なのである。ミスばかりしている相手とやってもつまらない。逆に長いラリーが続くと、勝っても負けても、楽しいのである。だからバドミントンで同じレベルの技量の者同士が対戦するようになるのは自然である。できるだけいいラリーをしたいからだ。

 まるでデジャブのよう。ああ、やはり同じように考えている人はいるんだなあ、ということなんだけどね。

 しかし、さらにさかのぼって調べると、実は2/18の日記でこんなふうに書いていたのだ。

これが競争しつつ共同するという構図である。相手の打ちにくいところに球を送ることによってお互いに競争し、その結果スリリングなゲームが構成される。それは全体としてみれば共同作業なのである。

 こうなるともう「老人力」の発揮といってもいい。同じことを何度も書いているじゃないか。

 それから、もう一つ。「対話体で書く」ということについてのこんなくだり:

 よく二人の人物の議論を対話体で書く人がいますね。
「やあ、いらっしゃい」
「久しぶりに君と議論をしようと思ってきたんだ」
「そういえば、いい酒がある」……
 なんて(笑)。
 あれはうまく行くとおもしろいんだが、むずかしいんだなあ。なぜむずかしいかというと、冗長になりがちだからです。それに頻繁に改行しなくちゃならないから、スペースがなくなる。考えるときには対話的に考える、しかしそれを書くときには、普通の文章の書き方で書く。それがいいと思う。(p.265)

 5/4の休日日記で私はこんなふうに書いている:

これは日記に限らないが、対話形式で書いたほうが楽な場合が確かにある。それは、自分自身が必ずしも書く内容について整理できていないような場合だ。そういう場合はなかなか筆が進まない。でも、架空の人物を相手にして語って聞かせるように書いていくことでなんとか進めることができる。

……日記の場合は整理のついていない話のほうがむしろ多いのだから、対話形式のほうがいいのかもね。

そうだね。なかなか日記が書けないという人は、架空の人物を一人設定して、それに語って聞かせるという感じで書くといいかもしれない。ちょっとファンタジー的かなあ。

……なんだか対話形式はいいことづくめのようだけど、欠点はないの?

もちろん、ある。ひとつは冗長になるということだ。つまり分量が多くなる。普通の文体の二倍から三倍くらいにはなるのではないか。しかし、これはWebページのようにスペースを取ってもコストが高くならないメディアでは問題にならないだろう。むしろ文章量は多くなってもわかりやすいものが求められているはずだ。

 こうなると、私は「丸谷才一先生くらいにはものを考えている」と喜ぶべきなのかもしれない。

 というわけで、丸谷才一の本を読んだのはこれが実は初めてなのだけれど、ファンになってしまったのでした。

世間を相手にしてはならない

 きのうの日記で丸谷才一の「思考のレッスン」(文芸春秋)を取り上げたが、「僕も同じことを考えていたんだよ」というばかりの嫌らしいものになってしまった。

 この本で本当に感心したところはたとえば次のようなところだ:

 よく自分の疑問を人に話す人がいますが、これはお勧めしません。というのは、そんなことを他人に話したって、だいたい相手にされない(笑)。相手にされないと、「これはあまりいい疑問じゃないのかなあ」と自信をなくして、せっかくの疑問が育たないままで終わってしまう。

 一番大事なのは、謎を自分の心に銘記して、常になぜだろう、どうしてだろうと思い続ける。思い続けて謎を明確化、意識化することです。そのためには、自分のなかに他者を作って、そのもう一人の自分に謎を突きつけていく必要があります。

 普通の意味で他者と言えば、世間のことですね。ところが、世間を相手にしてはならない。なぜかと言えば、世間は謎を意識しないからです。そんなことにいちいちこだわっていると成り立っていかないから、もっぱら流行にしたがって暮らす。それが世間というものなんですね。(p.188)

「ものを考える」ということについて:

でも、謙虚なのは生活面では美徳だけれど、しかし傲慢とか謙虚ということは、ものを考えることとは関係がない。(p.196)

自分の直観と想像力を信頼するのが大事で、実証主義に遠慮してはならない。もちろん実証も大事だけれども、それに「主義」がつくと、単なる臆病、あるいは前にお話しした学問的官僚主義に陥ってしまう。人から悪口を言われないで無事に勤め上げるという消極的な態度は、処世上の態度としてはいいかもしれないけれども、ものを考える態度としてはまずいんですね。(p.217)

文章力がないと、考え方も精密さを欠くようになります。大ざっぱになったり、センチメンタルになったり、論理が乱暴になったり。文章力と思考力とはペアになるわけですね。(p.238)

「どうやって書くか」ということについて:

頭のなかで考えても、どうしたって行き詰まることはある。そのときはどうするか?(中略)いろんな手があるけれど、一番手っ取り早くて、役に立つのは、いままで書いた部分を初めから読み返すことなんですね。急がば回れで、いままで書いたところを読み返す。(中略)つまり自分の書いた文章を読み直すことは、一種の批評であって、その自己批評によってもう一人の自分との対話をする。(p.242)

文章というのは、われわれの文化の表現でもあるんですね。文章は文化の表現であり、文化は文章によって育てられる。そういう可逆的な関係を、もっと意識する必要があります。(p.262)

書き出しに挨拶を書くな。書き始めたら、前へ向かって着実に進め。中身がなかったら、考え直せ。そして、パッと終われ。/そこにもう一つ、全体に関わる心得を付け加えます。それは、「書くに値する内容を持って書く」ということ。/書くに値する内容といっても、別に深刻、荘重、悲壮、天下国家を論じたり人生の哲理を論じたり、重大な事柄である必要はない。ごく軽い笑い話、愉快な話、冗談でもいい。重い軽いは別として、とにかく書くに値すること、人に語るに値すること、それをしっかりと持って書くことが大事なんですね。(p.278)