KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

書く能力と頭のデキ

 人間城の主な日々(6/13)より:

ユニークな視点を獲得できてる学生は例外なく日本語がちゃんとしてるんで、頭のデキってのは言語能力なんだよなあということを改めて実感した。日本語はとっ散らかってるけど着眼点は面白い、なんてのは決してない。モノを考える能力はまず母語をちゃんと使える能力に依存するのだ。まあ、そういうレポートを読んでると、学生のアベレージの学力は低下してるのかもしれないけど、ちゃんとしてる奴も大学が成り立つ程度の数はいるものだと心強くなったりもする。どうやら日本語を書いてるつもりらしいという水準のもののほうが多いんで頭が痛いのも事実だけど。逆にいえば、大学できちんと文章教育をすれば、学力の向上にもつながるんじゃないかと。

 私も今「言語表現」という教養科目を受け持っている。それで毎週、20人前後の受講生からメールで送られてきた作文を読む。800字から1000字程度の作文だ。テーマはそのときによって自由テーマであったり、「英語第二公用語論について」だったりさまざま。

 作文の評価については、なるべくその書かれている内容については、気を取られないようにする。内容ではなくて、あえて形式的なところを評価するようにしている。たとえば、序論・本論・結論の構成になっているか、ひとつのパラグラフがきちんと結束しているか、トピック文が明確か、文が長すぎないか、曖昧さを最大限排除しているか、誤変換はないか、などの点を評価する。

 とはいうものの、人間城さんが言うとおり、日本語がちゃんとしているものは確かに内容も面白い。「読める(読むに値する)」という感じだ。一方で、ワープロの誤変換がそのまま残っていたり、主語と述語がねじれた文が書かれていたりする作文は「読めない」し、紋切り型の内容で面白くない。あるいはその乱暴な議論についていけない。

 こういう現象は、作文の授業よりもむしろ普通の授業でもっと端的に現れる。作文の授業では、少なくともこの授業をわざわざ選択してきたという意味で、比較的レベルの高い文章が書かれるからだ。別の授業、たとえば、教養科目の心理学では授業の終わりに毎回「質問書」を書いてもらっている。毎週100通以上の質問書を読んでいると、見た瞬間に「読める」ものと「読めない」ものに分類することができる。読めるものは、文章として成立しており、ある程度以上の分量が書いてある。読めないものは、殴り書きで、1行か2行で終わっている。「相田みつを」じゃないのだから、1行か2行ですべてを語り尽くそうなんて考えるのは無謀だ。その無謀を無謀と思わずにやってくる。

 人間城さんが言うように、書く能力と頭のデキとは確かに相関がある(因果関係はわからない)。

 さて、それではいったいどのような授業をやれば、読める文章が書けるようになるのか。ひいては頭のデキを良くすることができるのか。それが言語表現科目の目標にほかならない。しかし、未だ試行錯誤だ。

 少なくとも今までは、文章そのものの成り立ちを理解して、その通りに書くことを練習すればいいのではないかと考えて、そういう授業設計をしてきた。しかし、どうやらそれだけではだめのようだ。ある種の思考技術……批判的思考や論争の技術やレトリックなど/あるいはもっと広く「科学的な思考」……が一方にあって、それと文章技術が結びついた形で、授業の内容を作って行かなくてはだめなのではないかというところまではわかった。