KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

イヴァン・イリイチ『コンヴィヴィアリティのための道具』

コンヴィヴィアリティのための道具

コンヴィヴィアリティのための道具

1970年までに、私たちは次のことを明らかにした。

  • 1 強制的な学校化によって万人に普遍的教育を与えるというのは、とうていできない相談である。
  • 2 大衆教育の生産と市場商品化という代案は、学年編成の義務的学校よりも技術的には実行可能だが、倫理的にはよりたえがたいものである。
  • 3 産業成長に教育的限界を設定しうるものがあるとすれば、それは相互学習と批判的な人格的交流が高いレベルに達した社会でなければならない。

われわれの今日の社会的危機について新鮮な展望を得るには、こういったふたつの分水嶺が存在するのを認識すれば十分である。十年のうちにいくつかの主要な制度は手をつないで第2の分水嶺をのりこえた。学校は教育を提供する効果的な手段だと主張する資格を失いつつあるし、自動車は大量輸送の効果的手段ではなくなり、流れ作業は容認できる生産様式ではすでになくなっている。

私は、道具を使う人々の性格の構造ではなく、道具の構造に焦点を合わせようと思う。産業主義的な道具は、それ自身の歴史と文化をもつ都市の風景に均一化の刻印をおす。ハイウェイ、病院の建物、校舎、事務所のビル、アパート、焦点はどこでも同じ概観をとる。均一化の作用をもつ道具はまた、同一の性格類型を発達させる。パトロール・カーに乗っている警官やコンピュータを操作している経理士は、世界中どこでも同じように見えるし同じように振舞う。

制度には、その構造からして自立共生的な道具であるものがいくつかある。電話はその一例である。誰であってもコインさえもっていれば、自分の選んだ相手にダイヤルすることができる。

自動車は高速道路を要求する機械であり、高速道路は実際は選別的な装置であるのに、公益事業のような装いをまとっている。義務制の学校は巨大な官僚的制度である。教師がどんなに自立共生的に自分のクラスを導こうとしても、彼の生徒は彼をとおして、どの階級に自分が属しているかを学ぶ。

適切な社会的配置がなされれば、たいていの人が、学校化されずとも、またグーテンベルク以前の初期の職業を再びつくりださずとも、読者として成長していくであろうのとちょうど同様に、十分な数の人々が医療の道具を使いこなせるように成長していくであろう。

国家と多国籍企業は、拡大する国際的な専門職の帝国の手段と化している。専門職帝国主義は、政治的支配や経済的支配が打倒されたところでさえ凱歌をあげている。学校はどこにおいても、学習理論とカリキュラム編成に関する同じ本を読んでいる教育学者によって支配されている。学校はどの国でも任意の1年間に、多かれ少なかれ同じタイプの生徒を生み出している。

料理や礼儀作法やセックスは、教えこんでもらわねばならぬ事柄となる。学習のバランスは劣化する。つまり”教育”のほうに傾いてしまう。人々は自分が教えこまれたことは知っているが、自分のすることからはほとんど何も学ばない。人々は自分たちには"教育"が必要なのだと感じるようになる。

自立共生的な再構築が求めるのは、強制的な変化の速度に制限を設けることなのである。無制限な速度の変化は、法に支えられた共同社会というものを無意味化する。法というものは、ふつうに起こり、そして再度起こりそうな状況に関する社会成員の回顧的な判断にもとづいている。すべての状況を左右するような変化の速度が一定の点をこえて加速されるならば、そういう判断は妥当性を失う。法に支えられた社会は崩壊する。社会の管理は住民の参加を容れる余地がなくなり、専門家の果たす機能と化す。教育者が、人はどのように訓練されるべきか、また生涯をとおして再訓練されるべきかを定める。

道具が成長するのにはふたつの領域がある。ひとつは、その域内なら機械が人間の能力を拡大するために使われる領域であり、ひとつは、そこでは機械が人間の機能を縮小しふるいにかけ置き換えてしまうために使われる領域である。

世界はいかなる情報も含んではいない。それはあるがままの姿でそこにある。世界についての情報は、有機体の世界との相互交渉を通じて、有機体の中につくりだされるものだ。人体の外部での情報保管について語ることは、意味論的なわなに落ちることになる。本やコンピュータは世界の一部なのだ。読まれたり操作されたりしてはじめて、それは情報をもたらす。

よき結婚のならわしの条件として性についてもっと率直かつ自由に振舞うことをすすめたりしたら、一世代前にはわいせつに聞こえたであろうが、今日、道具に対する限界設定をすすめればそれとおなじくらいひどく冒涜的に受けとられるのである。

人々は誕生から死に至るまで世界規模の校舎に閉じこめられ、世界規模の病院で処置を受け、テレビジョン・スクリーンに取り囲まれることになり、そういう人工的な環境が世界規模の牢獄と区別されるのは名前だけということになるだろう。

あまりにも予言的な内容。

手元の簡単な道具から、社会的な制度に至る、あらゆる道具(人工物)にふたつの分水嶺があること、つまり、道具が人間の能力を拡張するポイント、そして道具が人間の機能を縮小するポイント(そこから先は人間自身が道具になってしまう)があることを明らかにする。そして第2の分水嶺を越えないためにあえて道具に限界を設けなければいけないこと、そうした上で、自立共生的な社会を作ろうと主張する。