KogoLab Research & Review

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フランク・ウェブスター『「情報社会」を読む』

「情報社会」を読む

「情報社会」を読む

「情報社会」が新しいとする論拠を分析すると、次の五つに区別できる。テクノロジー的/経済的/職業的/空間的/文化的

雇用分布の変化は、最も影響力を持った「情報社会論」であるダニエル・ベルの著作でも、中心をなしている。ベルは、「ホワイトカラー(情報職業)社会」の出現と、工場労働者の激減が、階級を基礎とした政治的対立を終わらせ、よりコミュニティ的な意識を芽生えさせ、男女の平等化も推進すると考えた。

ガーシュニーとマイルズは、人々がサービスを求めていることには同意するが、他人に何かをしてもらうよりも、自分で道具を買ってしまう方が好まれる、としている。消費者はサービス需要を、物の形で満たしているのであり、「これがサービス供給に関する技術革新への圧力を生み出している」。サービス需要が製造業それ自体に刺激を与えるのだ。

「われわれは普通、二十世紀末になって情報の時代に入ったと思いこんでいるが、近代社会は初めから『情報社会』だった」とギデンズは直截に断言している。

だがここにも逆説がある。都市生活においては(先進国では大多数が都市生活者だが)、共同体を基礎とした生活よりも社会的な組織化が必要であり、それが機能するためには細かな情報まで収集しなくてはならない、という逆説である。こうした組織が集める情報は、前工業段階の共同体のものよりも、はるかに細かく、遠回しで、正確かつ固体化されている。

テレビのチャンネルを作れるのは商業的に引き合う場合のみであり、テレビ番組の供給は商業的規準(普通には広告収入の量)でなされるという事実に明らかである。番組内容にもそれは刻印されている。結果として、センセーショナルな番組、アクション・アドベンチャー番組、ソープ・オペラや連続ドラマ、スポーツ番組など、知性を要しない、政治的に体制を脅かさない番組ばかりになる。

ケーブルテレビや衛星放送についても、概ね同じ事態が起きた。チャンネル数が三十以上にもなれば、人々の差異化したニーズに応えて、例えば演劇が好きな人には劇場中継を、舞踏好きにはバレエを、政治に鋭い人にはニュースや事件報道を、自分を向上させたい人には教育番組を、といった「お話」が盛んに語られたけれど、実際に起きたのは、ブルース・スプリングスティーンの言葉で言えば「五七チャンネルあってどれもダメ」という事態である。

受動的な大衆がプロパガンダの犠牲になっているから今日の民主主義は偽物だと断ずるハーバーマスの悲観主義に抗しても言わなくてはならないのは、人々は創造的であり、パソコン、ファクシミリ、ビデオカメラといった新しいテクノロジーを想像力豊かに用いて情報交換を行っているという事実である。