
- 作者: 沼野一男
- 出版社/メーカー: 国土社
- 発売日: 1986/11
- メディア: 単行本
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大学では村井実先生のご指導を受けた。……その時私は先生に「ペスタロッチのような天才でなくても、私のように未熟なものでもせめて大過なく子どもたちを教えることができる科学的な教育学を教えてください」とお願いしたことがある。……それから数年たってハーバード大学で研究されていた先生は、スキナー教授の研究室でティーチングマシンをご覧になった時、すぐに私のことを思いだしてくださったという。そしてティーチングマシンを持って帰られて、私のいう「大過のない教育」のためにティーチングマシンとプログラム学習の研究をするように勧めてくださった。
1986年の本です。日本における教育工学の源流を知りたいと思い、読みました。
前半は村井実の教育における「善さ」(http://d.hatena.ne.jp/kogo/20050718/p1)について論じ、教育のパラドクスとして「私たちは子どもたちを善くしようとして教育をする。しかし、何が善いのかは誰にもわかってはいない。それにもかかわらず、私たちは子どもたちを善くしようとして働きかけないではおれない」ということを提示しています。
真ん中の大部分はプログラム学習の設計例で占められていますが、最後に沼野一男らしさが現れてきます。それは「オーダーメイドの教育」と名づけられ、できるだけ自分はレクチャーをせず、材料となるプリント(独習できるようなテキスト)を配布し、それを独習してきてもらい、授業時間中には各自が書いた「質問票」からのトピックを中心に進めていくというものです。そうか、「質問書」方式(http://d.hatena.ne.jp/kogo/19990301/p1)の元祖は沼野先生だったのですね。
一斉講義は学生に対しても多くの利益を与えるとは思えない。定められた時間に、教師のペースで進められる講義を聞くよりも、自由な時間に自分のペースでテキストを読み、授業時間ではテキストでは理解できなかった点や、テキストを読むことによって新たに生じた疑問を教師に問いかけるという方法で学習する方が、学生は授業からより多くの利益を受けることができるであろう。