KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

『本が死ぬところ暴力が生まれる』

本が姿を消すにつれて、現代社会を維持していく最も貴重な道具も失われていく。つまり、良心や後悔や、そしてもっとも重要な、自己というものが刻みつけられている内化されたテクストが消えてゆく。
非識字は、教育とテクノロジーの共謀がもたらした副産物である。教師が小学校で子どもをコンピュータの前にすわらせるとき、その教師は、テレビ、映画、ビデオ画面の権威に頼っている。無意識のうちに、教師はメディアの反識字世界へと子どもをはめ込む。

銃はアメリカ都市部ではカメラと同じくらいどこにでもあるものになった。…合衆国政府からライセンスを受けている銃砲店は25万近くにのぼり---おおよそ国民千人あたりに一軒ということになる---、行列して待たずともよい。/世界中の国のなかで、アメリカが殺人で突出せずにいることがどうしてできるだろうか。また、アメリカ国民の多くが識字において他国から大きく遅れをとらずにいることがどうしてできるだろうか。殺人と非識字とは関係している。非識字は後悔と罪悪感の欠如を助長し、引き金を引きやすくする。拳銃は、非識字のための筆記具である。

  • バリー・サンダース(杉本卓訳)『本が死ぬところ暴力が生まれる』(新曜社、1998、2850円)

 識字とは「読み書き」ということであり、非識字とは「読み書きができないこと/人」ということ。アメリカで暴力と殺人がはびこっているのは非識字者が増えているのが原因であると著者は主張する。その論旨をまとめると次のようだ。

識字になることによって、人は「内化されたテクスト」を獲得し、そこで思考する「自己」を持つことができる。非識字者は自己を持つことがなく、良心や罪悪感を持たない。

識字の前段階として口承世界での経験が必要である。それは具体物と経験の世界であり、状況に深く埋め込まれている。口承世界は子どもと親のやりとりから始まる。

若者は識字化された学校を飛び出し、口承世界に戻ることもできずにいる。彼らはテレビ、映画、テレビゲームが提供するイメージの世界に生きる。こうした若いギャングメンバーの多くが非識字である。

 「口承世界→識字世界→自己の獲得」の記述は分厚く、スリリングである。

 しかし、「識字はコンピュータで教えることはできない。それどころかコンピュータはますます若者を非識字に追い込む」という一点が私には納得できない。本に非常に近い形の「エキスパンド・ブック」でも著者には気に入らないのだ。

 確かに学校システムが、生徒を消費者とし、識字教育を商品として、一つの免状を与えることをやっているのは問題だ。著者は「口承から識字に至るダイナミックなプロセス」がそこにはないという。それは正しい指摘だろう。つまり識字とは単なる技能ではなく、必然的に自己や批判的思考や内省を含むものだということだ。それは学校教育では無視され続けている。

 ではどうすればいいのかというと、口承世界に立ち戻ること、家庭の中の親と子の関係に立ち戻ることだという。そのことによって識字世界に入る準備ができるという。それは、確実な方法であるとは思う。しかし、もはやテレビやコンピュータを社会からなくすことは不可能だし、不本意であってもそれらのお世話にならずに生きることは無理なのだ。それどころか、コンピュータやネットワークによって新しい識字を獲得させることができると主張する研究者もいる。著者の立場ではそれは不可能だというのだが、その根拠が弱すぎるという感じはぬぐい去れない。