KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

「論争に勝つ」

 「アエラ」3/13号の「論争に勝つ」という記事を読む。『東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ』(筑摩書房)という本(これは読んでいない)から次のようなケンカの仕方が紹介されていた。

  • 開き直り。反論や弁明はしない
  • 相手が安易に使用している言葉を「わからない」と言って逆質問する
  • 質問のまま返して、相手にしゃべらせ、破綻を待つ
  • 具体的な指摘で、小さなスキから突いていく

 「議論はゲームなんです。……詰め将棋のようにあの手、この手で相手を追い詰めていく」ということだ。「上野さんの知るアメリカの一流の学者たちは、ディスカッションの場でのフェイントや外しを日常的にやってのける。……そうしたやりとりを通じて、学者たちは理論にとどまらないレトリックのスキルを鍛え、自説を展開していくという」とも。

 なるほどね。だとしたら私はこういうディスカッションはしたくないかもしれない。だって議論でゲームなんかしなくても楽しいゲームはたくさんあるのだから(DDRとかバドミントンとか)。議論をするのならば、相手と共同で何か新しいものを作れるようなそういう人としかしたくない、と思う。

 富山では地上波でテレビ朝日系が入らないので、「朝まで生テレビ」はもう見ていない。昔はよく見ていたのだが、あの議論が終わった後に残る「空しさ」を持て余していた。あれは今考えると、レトリックの空しさだったのかもしれない。今は議論系の番組は「ここが変だよ日本人」くらいしか見ていない。しかし、これも議論系と呼んでいいのかどうか。議論についての悪いモデルを提示しているのではないかと時々思う。だから問題提起が終わったところで見るのをやめてしまうことが多い。番組が進むにつれて、発散し、乱暴になっていくような気がすることが多い。

 「論理的」というキーワードが何回もでてくる。同じ号の「こんな学生「買い」だ」という記事には、企業が欲しい人材の採用ポイントのリストが載っているのだが、「論理的思考能力/論理性」はコミュニケーション能力や創造性と並んで人気がある。いったい論理的思考能力というのはなんなのか。もし議論をする双方に十分な論理的思考能力があるのならば、なぜ議論の場でフェイントや外しを使わなければならないのか、よくわからないのである。