KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

体罰についてもう少し考える

 5/6の日記で「子供の頭をたたくこと」つまり体罰について少し書いた。体罰についてもう少し考えてみる。

 体罰がなくならないのは、それが一見効果的に見えるからだ。たとえば、泣きやまない子供をたたけば、びっくりして少しの間泣くのをやめる。しかし、すぐにさらに激しく泣くだろう。そうしたらもっと強くたたく。瞬間泣きやむ。しかし、また泣くのを再開する。また、たたく。これが繰り返されて、子供はしまいには泣きやむ。親は「やはり体罰は効果がある。こうして泣きやんだのだから」と確信する。しかし、子供が泣きやんだのはたたかられたからではなく、ただ疲れたからだ。

 たたく以外の方法でもっと速やかに子供を泣きやませる方法があったはずだ。なんと話しかければいいのか。おもちゃを持ってきてあげるのか。ジュースを飲ませるのか。お菓子を与えるのか。ビデオを見せるのか。どれかがヒットするはずだ。しかし、それは手間がかかる。子供をよく観察しなければいけない。ただたたくことよりは数倍複雑な仕事なのだ。

 つまり、子供の行動を観察して、効果的な方法を見いだすのに比べれば、体罰は誰にでもできる(腕力がなくてもつねるくらいは誰でもできる)簡単な方法であり、しかも瞬間的な効果が目に見える(しかし持続はしない)ので、使われ続ける。行動分析学の本が言うように「みんな嫌子(罰)を使うのが好き」。

 私の子供時代——幼稚園から小学校低学年まで——は、手のつけられない乱暴者だった。ほかの子供のおもちゃをぶんどる。思うとおりにならなければ、ケンカをする。ケンカで負ければ、悔しくてその子の家の窓ガラスを割ったりしていた。素手で。(←すごいね)

 それに対して父親は容赦なかった。ケンカをした相手の家まで、私を引きずっていって謝らせた。私が暴れまくると、紐で縛って、反省するまで転がしておいた。(←これもすごいね)

 しかし、そうした罰はそれ限りのことであったし、一回で十分こたえる強力なものでもあった。学習は一回で成立するのである。子供はその体験からすべてを学ぶ。しかも一回で。何度も体罰を繰り返したり、小言を繰り返したり(言語的罰)、叱り続けたりする必要はみじんもないのである。だいたい、そんなことを続けていたら、こちらが疲れるだけではないか。

 体罰を使うのは愚かだ。もっとも簡単で、考えなしに使える武器が体罰だ。しかし効果はほとんどない。「体罰を使ったら、行動が修正された」と思われている事例はたいてい別のことが原因になっている。「愚か者の武器」は使わずに我慢する。我慢し続けて、しかし、ここだけはというときに使う。そうすれば、「禅の一撃」のようなものとして使うことができる。それは言葉を超えた教えになりうる。