KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

卒論が遅くなっているのはなぜか

 ここ数年で卒論を仕上げていくスケジュールが確実に遅くなっている。客観的に見れば、これ以上遅れれば卒論は書けない、というほとんどぎりぎりのスケジュールである。以前は、夏休み前に実験は終わらせていた。今は、11月にはいってもまだ実験ができないという状態が普通になってしまっている。これは明らかに遅い。

 なぜこんなふうになってきたのか。外的な要因としては、就職活動の前倒しということがある。これによって、四年生の前期はほとんど卒論を進めることができないということになってきてしまった。しかし、よく考えれば、就職活動をしているといっても毎日、しかも一日中そればかりをやっているわけではないのであるから、そうした状況にあっても卒論は進めることができるのである。

 おそらく就職活動の変化は大きな要因ではない。とすれば、これは全体的な少しずつの遅れが重なってこうなってきたと考えるしかない。つまり、三年生は四年生のペースを見て自分のペースを決める。そしてそのペースでなんとか卒論が仕上がっている限り、自分のペースをそれより早いものにはしようとしないはずだ。あまりにもサボりすぎて、卒論ができず、就職が決まっているにもかかわらず泣く泣く留年してしまった、というような事例がひとつやふたつは必要なのだ。後輩はそうした先輩を見れば、自分のペースを早めようとするだろう。しかし、幸か不幸かそうした例はない。

 とすれば、卒論のペースを決めるのは指導教官の重要な仕事になるだろう。いずれにしても、スケジュールが遅れたために、時間にせき立てられて書いた卒論にいいものができるはずがないのだ。自分の仕事のスケジュールの管理も、その人の能力のひとつである。

 指導する側の反省としては、卒論テーマを決めるのが遅いということがある。もちろん教員が卒論生のテーマをすべて決めてあげればそれで解決である。しかし、テーマを見つけ、決めることも卒論の一部である(というより、実は卒論の大部分なのだ)、と考えている(*)自分としては、教員が学生のテーマを割り当てるという行為をいさぎよくしない。いわば、テーマがどうしても決まらない場合の(そうした場合が大部分なのであるが)最終手段としてきたところがある。

(*) たとえば、「自分のテーマを決める方法」などを書いてきた。

 しかし、ここで発想を転換しなくてはいけないのかもしれない。つまり、卒論では指導教官が学生にあったテーマを与える、ということだ。これはマスター以上では適用されない。つまりマスター以上ではテーマの発見そのものが、研究者として必要な能力だとみなされているからだ。しかし、卒論では、指導教官が自分のカードのなかから、テーマとなるカードを学生に選ばせるということでいいのではないか。しかも、それをできるだけ早い時期に行ったほうがいいのではないか、と思うようになってきた。