KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

お得なテーマはない

 ということで、三年生に、もうすぐにでも自分の卒論テーマを決めるように言った。今、自分が手がけているテーマの持ち札を全部紹介して、どれか興味のあるものを選ぶように勧める。しかし、実際、全部持ち札を見せられて、さあどれにする、と聞かれてもなかなかすぐには決断できないだろう。お見合パーティで、どの人にしようか迷うのと同じことだ(お見合パーティには残念ながら参加したことはないが)。

 ともあれ、ひとつ伝えておきたいことはある。それは「お得なテーマなどというものはない」ということだ。提示したテーマは、すべて私にとって愛着のあるもの、いわば子どものようなものだ。だから、このテーマよりも、あのテーマのほうがいい、とか悪いとかは決してない。ただその人との相性があるだけなのだ。その意味でお見合に似ているのである。お見合の相手を、損か得かで選ぶ人は、おそらくその先後悔することになるだろう。つまり結婚の相手を、損得で選ぶ行為をした時点で、相手を侮辱しているからだ。侮辱できるような相手と長くうまくやっていくことはできないと断言できる。

 どのテーマを選べば楽に卒論を書くことができるか、と考えることは無駄だ。なぜなら卒論の良さというのは、自分がどれだけそのテーマに時間をかけたかということに比例するからなのだ。つまり、どれだけそのテーマと真剣につき合ったかという時間と深さに依存するのだ。性格のいいテーマというものは存在する。こうストーリーを立てて、こう実験すれば、こう結論が導けるという筋書きがクリアーなテーマはあるものだ。しかし、だからといって、何も考えずに卒論は書けない。せっかく性格のいいテーマを選んだのに、なんとも薄っぺらな卒論しか書けない場合がある。それはそのテーマと真剣につき合ってこなかったことのしっぺ返しなのである。

 つまりこう考えたらいいだろう。卒論を書くと言うことは、恋人として選んだテーマとどういうふうにしてつき合ってきたか、ということの告白日記なのだ。恋人とありきたりのデートしかしていなければ、厚みのある日記は書くことができない。たまには喧嘩したり、お互いに理解できなかったり、行き違いがあったりして、それでも本当の所はどうなのかを知りたくてコミュニケーションする努力をする、そうした過程があってこそ、つきあいは深まるというものだ。卒論もまったく同じことなのだ。自分のテーマを愛することだ。その複雑さや深さを愛すべきなのだ。

 テーマ選びは恋人選びと同じである。したがって、お得なテーマというものはないし、どんなテーマを選んだとしても要領よくやろうとすれば、それだけのものしか書くことはできない。どんなテーマであってもそれを深く愛するほどに(つまり、毎日そのことを考えるようにすれば)テーマは輝いてくるし、よい卒論が書けることになるのである。

 とすれば、私の役割は、テーマと学生を引き合わせる「お見合おじさん」のようなものであるな。引き合わせがうまくいって、テーマも学生も輝いてくれれば、それが一番うれしいのではあるが、そういったり、そういかなかったりするところが、難しく、おもしろいところだ。