KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

書かれたものがすべて

 パソコン通信などの会議室で、議論がちょっとしたきっかけでエキサイトしたりすると、熱くなった場を冷やそうとしたり、誤解や曲解でねじ曲がった議論を元に戻そうとして、

パソコン通信のような文字だけでは自分の気持ちがうまく伝えられないですから。」

というような言い方がよくなされる。これは、自分の本意を十分に文章として表現することができなかったことの言い訳である。だから「ああ、この人は言い訳をしているんだな」というふうにみんなが了解すればいいのだが、そういうときに限って議論の相手も、

「本当にそうですよね。文字だけで伝えるって難しい。」

などという妙な合意をしてしまう。そういう合意をしてしまうと、

「自分の正しい本意というものはどこか別のところにあって、この場で交わされている言葉はそのうちのほんの少ししか反映していないのだから、そんなに突っ込まれても困ります。」

という逃げ道をお互いに準備していることになり、生産的な議論ができないことになる。「生産的な議論」というのは、ここでは「なあなあでない、妥協のない議論」と定義しておこう。ここでいう議論は、商談でもなく、外交交渉でもないのだから妥協は(結果としてもしそうなったとしても)必要のないことなのだ。

 ここで「表現されたものがすべてである」と言ってみたい。そして表現しつくされなかった部分は、それを書いた人の「人間性」や「人格」に踏み込まないのと同様に、踏み込まないでおくというルールを敷いてみたいと思う。つまり、表現されたものがすべてであるとしてコミュニケーションをしていくということだ。このルールはなんだか暖かみがないようだが、これによってずいぶん救われると思うのだ。

 ひとつめはすでに書いたように、どんな稚拙な表現であってもそれを書いた人格に踏み込まないでいられること。これによって確実にケンカは減る。ふたつめは、誤解に対する寛容が生まれること。表現されたものは必ず不完全なものであるから、誤解や不理解は当然あるものとして進めていく。それをもって書き手も読み手もその文章を非難することはしない。メッセージを重ねてより本意に近いところに持っていけばいいだけのことだからだ。

 このルールには大切な前提条件がある。それは読み手にせよ、書き手にせよ(パソコン通信では一人が両者を兼ねる場合が多い)悪意を持っていない、ということだ。もし悪意があれば、どんないパーフェクトに近い文章であっても、曲解し、ねじまげ、揚げ足を取ることが可能である。だからもし相手に悪意を少しでも感じたら、確認し、もしそうならただちにコミュニケーションを止めることである。それが一番いい解決策である。そういう人に対しては、こちらがどんなに誠意をつくして文を綴ったところで、揚げ足を取られるのが関の山だからだ。そういうときには相手にしないという自分の権利を行使した方がいい。

 さて、では会って話せば分かり合えるのかというとこれは疑問である。これについてはまた書こうと思う。