KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

中田はポスト・マスメディア

 きのう、サッカー選手の中田がテレビに生出演するというので番組を見ていた。司会兼インタビュアーの福留が、まるで腫れ物にでも触るような感じで話を「うかがっていた」(本当にこんな感じ)のが印象的だった。

 中田の受け答えには、テレビで普通に行われる、いささかの作為もなかった。気の利いたことを言ってみようとか、驚かせてやろうとか、泣かせることを言おうとか、笑わせてやろうとか、そういうことがまったくないのだ。何かを意図してストーリーを作ろうとか、思わせぶりな回答とか、聞いている人を意識しているような言葉がまったくなかった。これには驚きを通り越して、不思議な感じすらした。マスメディアの中で「素」のままでいられる中田のすごさを感じた。すごいか、あるいは、全くの鈍感かのどちらかである。

 中田の話にはときどき彼のホームページに書かれたことがそのまま現れる。ホームページを書いている人はわかるかもしれないが、自分が書いたことをそのまましゃべっているということはよくあるのだ。これは彼が自分が書いたものに正直であり、彼自身が考えて書いていることの証拠である。だから彼は、テレビ的な当意即妙、流れでしゃべることを拒否するのだ。不器用なのかもしれない。実に非テレビ的な人である。

 中田の世代の青年たちが彼を手本にして変わりだしたなら、すごいことになるだろう。しかし、そうはならないようだ。同世代の人からも中田は浮いている、とは彼のファンの話である。そりゃそうだ。中田のような青年はめったに見ることがない。ちゃんと書ける。ちゃんと話せる。ちゃんと相手の言葉を聞ける。マスメディアのプログラムを鵜呑みにしない。こういうことができる青年が今どれほどの割合でいるのだろうか。

 中田はマスメディアは本当のことを書かない、伝えないという。そして彼は自分のホームページというパーソナルメディアで自分自身の本当のところを語る。そして、それを読む人が少しずつ増える。知りたいことは、本人が語ることに直接耳を傾けよう、それが一番真実に近いところだ、ということに多くの人が気が付き始めたら、これはすごいことだ。その副産物として、マスメディアの情報を鵜呑みにせず、自分なりの批判的な目でとらえようとする人たちが出てくるかもしれない。とすれば、中田はメディアリテラシーの増進に一役買ったことになる。