KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

たった一人のためにWeb日記を書く

 きのうのオマケに書いたように今日はお休みにするつもりだったんだけど、どうしても提出しなきゃならない書類があって学校に来ました。それでついでにこんな文章を書いてみた。

 この問いはたいていのWeb日記書きが一度は取り上げるトピックだろう。自分だけの日記帳に書いて、誰にも見せなければ、日記としてはそれで十分だろうに、なぜそれをわざわざ他人に読んでもらうのか。身内や勤め先の話を書くなととがめられ、思うところを述べただけで非難や冷やかしのメールが届く。そんなリスクを犯してまでなぜ書くのか。

 それは読んでくれる人がいるからである。そして書き手にとって読んで欲しい人がいるからである。Web日記は読まれなければ意味がない。書く人は書いたものが読まれることによってさらに書くためのパワーを得る。そして書き続ける。

 私の空想は自分の臨終の時へと跳ぶ。

  • あのなあ、私はこんなことを思って、こんなことを考えてきたんだ。まあ全部を語り尽くすには今ちょっと時間が足りないがな。とにかく本当にたくさんのことを考えてきたんだよ。わかるかね。
  • わからないよ。そんなにたくさんのことを考えてきたのなら、それをもっと早くから僕に語って欲しかったな。さもなければそれを書いて欲しかった。もうすぐ死ぬんだよ。こうして話している時間もあまりない。
  • まあ仕方ないじゃないか。こうなるちょっと前までは、私は仕事で大活躍していて大忙しだったんだからな。そんなに話したり書いたりするヒマはなかったのさ。そんなことをしていたら本来の仕事をする時間がなくなってしまうからな。
  • 本来の仕事って何? 誰がそんなことを決めたの? それにかける時間をちょっとだけ削って、僕に話して欲しかった。僕にも聞く時間がなかったのかもしれないけれど、今はそう思う。それできっと僕は何かを得ることができたかもしれない。

 私はきっと、死ぬときはもう何も言うべきことを残していない状態で死にたいと思っているのかもしれない。自分が考えていること、やりたいことを文章というミーム(自己を複製して広がっていく遺伝子になぞらえた情報の考え方)にしてこの世の中に放っておきたいという衝動がある。うまくミームに形を与えることができると私は少し満足する。そのミームが誰かに伝わる可能性があれば私はパワーをもらったような気になる。

 人はどんどん書かなくなっているのではないだろうか。テレビを見たり、ゲームをしたり、新聞、雑誌、本を読んだりすれば、自然に書く時間はなくなる。そしてこういった消費的な情報の供給は減るということがない。人がパーソナルなレベルで書くということがなくなることは恐ろしい。

 たしかにテレビは面白い、雑誌も面白い。そして人気のあるWeb日記も面白い。しかし、人気のWeb日記が一方でその読み手に対して「書く」ということを抑圧しているということを指摘しておきたい。人気のWeb日記を読み終わって「でも、私にはこんなに面白い日記は書けないな」と思ってしまうのが抑圧された反応の一例だ。日記は面白くなくてもまったくかまわないのに。

 また人気があるという単なる結果としての事実が、その人の書く日記を本来あったような姿からそらしてしまう力が働くということも指摘したい。読者を得るために、またアクセスを増やすために、その内容を読者向けのサービスばかりで埋めるなら、それはもはや「日記」ではない。「毎日更新の面白Webページ」とどこが違うのか。

 Web日記はたくさんある。面白いものも、共感するものも、ためになるものもある。しかし、何千もの日記を探して読んだとしても、あなたの思ったとおりのことが、あなたのスタイルで書かれた日記は見つけられない。それはあなたが書かない限り存在しない。そこに「あなたが書く」理由がある。そして私もその理由によってこうして書いている。

 私はWeb日記を書く。それは顔の見えない大勢の人のためにではなく、たった一人の読者のために書く。その一人はその時によってさまざまに変わる。未来の自分であることもある。その人の顔を思い浮かべながら書く。これが私のスタンスだ。たった一人のために書かれたものが、多くの人に読まれるならば、それは望み以上の喜びだ。しかし不特定多数の人を狙って書かれた日記は一人の人すら感動させることはできないし、それはもはや日記ではないと考えている。