KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

「表現力」という虚構

 ニフティサーブの心理学フォーラムの会議室にごくたまに投稿したりコメントを書いたりしている。私が読んでいる、認知心理学の会議室はめったに発言がないのだが、最近現場の先生から(現場の先生が認知心理学に興味を持ってくれるのはうれしいことだ)「マルチメディアで表現力を伸ばす」というような研究授業をやるのだが、いったい表現力というのは何なのか、という質問のメッセージが寄せられた。

 これに対して(常連の)小橋康章さんは、表現力というような「力」のメタファを使うと、そのためにわかりやすくなる部分と、かえって本来のものとは違ったように誤解させる副作用があると指摘した。「力」のメタファを使ってわかりやすくなる点というのは、それに対して働きかけができたり、比較できたり、増強できたり、伝達できたり、回復できたり、測定できる、というようなイメージが湧くというところだ。このイメージは強力で、教育の世界に蔓延しているため(その頂点が「学力」ということばだ)、先生の仕事はたとえば表現力を伸ばすことだ、というように端的に語られる。しかし、すこし冷静になって考えみれば、いったい「表現力」というのは何なのかということは、そのイメージの下に隠されてしまって実は誰もわかっていないということが明らかになる。「力」は確かに間接的にしか見えない。

 教育の世界では「○○力を伸ばす」(○○力というのは、思考力、創造力、生きる力など)というかけ声がなされる。ここで力は伸ばすことができるものとして設定されている。だからもし、学生(児童、生徒)の力が伸びなかった場合は、教える側の責任が問われる。この点でいかに学生のことを考えていると弁明しても教師中心主義なのだ。それは教師が伸ばせるか伸ばせないかの鍵を握っているという意味において教師中心である。

 しかしいったん学校の世界を離れて、実社会に入ってみると「○○力を伸ばす」ということが虚構であったことに気がつく。力は伸ばされるものではなく(伸ばしてくれる人などそこにはいない)、自分で努力するものであり、他人から盗むものであり、手痛い失敗から学んでいくものなのだ。

 力をメタファとして使うことで見えなくなることは何か。それは○○力というものが均一の塊として、あまりにも単純にしかとらえられないということである。たとえば表現力というものを考えてみれば、それはのっぺりした力などではなくて、計画、取材、構成、イメージ作り、プロット、ストーリー、レトリック、ユーモア、読者へのサービス、どんでん返し、などといった多種多様の技能とレパートリーの集積であるはずだ。そのひとつひとつに対して適切なアドバイスと訓練をほどこすことによって全体としての表現力が伸びるはずなのである。しかし、力のメタファはこうした複雑性や階層性を見事に隠蔽する。よくある「がんばれば、できるのよ」といったことばはその一端だ。

 だから、「表現力」というような学校スラングは捨てなければならない。その代わりに「表現の結果(成果)」と「それを生み出すために複数のプロセスにどのように介入したか」ということばを使うべきである。そうすることによってのみ、学生の中で起こっていることが正確に把握できると思う。

  • インスピレーションを与えてくれた小橋さんのメッセージ(ニフティサーブ)に感謝します。
  • 永野重史「子どもの学力とは何か」(岩波書店、1997)では、心理学は「学力」というようなことばをすでに捨てているとして、教育界でのその使用を批判している。