KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

我ながら情けない議論だった

世の中には議論が好きな人がいます。(ケンカが好きな人もいるけど、それはまた別の話)でも、私は少なくともここで、議論をしようなんて思ったことは、ただの一度もありませんでした。議論というのは、一定のルールなしでは成り立たないものです。(……)ルールがあるからゲームが面白いように、ルールがあるから議論は議論だけの透明さを保てるわけです。それも、知的遊戯として、いいんじゃないかと思います。でも、私はそうしたくなかったのです。

  • miyuさんの掲示板でのmiyuさんの投稿より(98/11/17)

 「金八先生批判」を発端として、ある掲示板で金八先生談義(この段階では「談義」であった)をしていたのだが、金八先生のモデルといわれている先生を恩師に持つ、あはさんが「そういう言われ方は本意ではない」として議論になった。それはすでに収束したのだけれど、我ながら情けない議論をしたものだと思う。丁寧な言葉で書いてはあるものの、私の発言には、論理のすり替えやら、定義されていない用語を使った揚げ足取りなどがそこかしこにみられる。この場を借りて、あはさんには再びお詫びしたいと思う。

 アスキーネットからPC-VANニフティサーブパソコン通信の世界を渡り歩いてきて、感じることは、バトルやケンカではない、至極冷静な議論であったとしても、そこから何か実りのあるものが生まれたという体験が皆無に等しいということだ。これはいったい何なのか? 電子会議室の「発言-コメント」という構造や、発言引用のシステム、こうした仕組みが必然的に当事者同士の対立を生むようにできているのではないかという仮説を思いつかせる。それは、当事者同士の寛容よりも不寛容を有利にし、お互いの共通性よりも差異性を際だたせるような性格を持っているのではないか。

 ニフティサーブで長い間、アクティブ(活発な発言者)であった私は、今ではまれにしか発言しない。それも、このWebページで書いたものでごくたまに会議室の話題にフィットするようなものがあればそれを転載するだけだ。会議室での議論をすることに比べれば、自分のWebページで気ままに書く方が十倍は楽な仕事だ。もう元には戻れない。特定の誰かを相手にして書くことは、書きやすいが疲れる仕事である。それが議論であればなおさらしんどい。時間がかかる。消耗する。疲れる。しかも成果を生む確率は低い。

 昔、私の師から言われた。「情けないケンカをするな。自分の仕事をしなさい」