KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

「電子的議論」論

 昨日の日記は自分で書いていて、かなり「痛い」日記だった。痛いことを語るときは文章が短くなることを体験した。この痛みは、ただ今回の一件によるものではけっしてなくて、遠い昔の「電子的戦争」や電子上のさまざまなことが思い出されて引き起こされたものだ。

 しかし、この話題をここの掲示板や他の方の日記で取り上げていただいたりして、うれしかった。とりわけ、がくもんにっきさんは「通信上の議論の特性について」と題した論考でこうした議論の特性をさらに詳細に展開している。読む価値がある。その結論部分だけをここに引用させていただく。

結論。ちはるさんの挙げられた「『発言-コメント』という構造」と「発言引用のシステム」に加えて、ぼくは、「発言機会に数的な制限がないこと」「発言-コメントの時間的サイクルの短さ」を通信における議論特有の問題点としてあげた。しかし、通信に限らず、「議論」ということ自体に多かれ少なかれ「不毛さ」の根があるということも最後に指摘した。「議論」から絶対的「結論」が生まれることは本質的にはないのである。

 (横道だけど)美しい日本語だなあ。

 赤尾さんは、電子会議などで有益な結果を得たことがないという共通の体験から、次のように論を展開している(掲示板より)。

対話的理性と独白的感性 投稿者:赤尾 晃一 投稿日:11月18日(水)23時58分38秒

ちはるさんの意見にまったく同感です。

電子会議室(フォーラム)やニューズグループなど「対話」を前提としたシステムでは,お互いの意見の差異が解消し,有益な結果が導き出せた経験がわたしにもありません。

基本的に特定の受け手を想定せず,「書きっぱなし」でよいweb日記だと,受け手側も,ある話題の断片だけをとらえるのではなく,その人の全体像というかバックボーンまで掴めるだけに,相手に対して寛容になりうるし,心の襞や微妙なニュアンスも伝わるのでしょう。

過日のフォーラムではそうした電子会議の短所とweb日記の長所に言及し,「対話的理性」は幻想にすぎず,「独白的感性」こそが重要だとの考え方を提示しました。

インターネットはダイアローグのためのツールではなく,モノローグのツールであって,そこにこそCMCの本質がある……と。極論といえば極論ですし,言葉遊びの感は否めませんが。

当日のプレゼン内容はいずれ「情報通信学会誌」にテキスト化され,全文収録されるはずですから,電子テキスト化はそれまでお待ち下さい<(_ _)> 半年後ぐらいになるでしょうが(^^;)

「インターネットはダイアローグのためのツールではなく,モノローグのツールであって,そこにこそCMCの本質がある」とは非常に刺激的な意見。いわゆる「グループウエア」はなぜ失敗したか、という議論もある今、こうした観点から見直していくことが重要であるような気がする。

議論の収穫 投稿者:shin16  投稿日:11月19日(木)00時00分54秒

はじめまして。11月18日の日記の感想です。日記を見ただけで、ちはるさんの議論そのものは見ていないんですが、「情けない議論」でも、どこが情けなかったかを知ることが出来れば、それだけでも実りはあったということではないでしょうか。

ネット上に限らず、共通の結論にたどり着ける議論が、そもそも少ないような気がします。議論によって自分の考えを発展させることが出来れば、それで充分なんではないかと。

という、コメントに対して赤尾さんは次のように展開する。

Re:議論の収穫 投稿者:赤尾 晃一 投稿日:11月19日(木)00時23分31秒

>議論によって自分の考えを発展させることが出来れば、
>それで充分なんではないかと。

「対話は相手と交わすのではなく,自分の頭の中の『内省』として実行される」。これはもともと“モノローグの連鎖”を本質とする日本型コミュニケーションの特徴でもあります。それこそ古代から連綿と続いている,「寄り合い」や「談合」と呼ばれる日本型意思決定システムの根幹でもあります。

対話相手との決定的な対立を避けるため,議論(ディベート)は行わず,他者の意見を聞いて,互いに持論を修正しながら,妥協点(落としどころ)を模索していくわけですね。

合意形成まで時間がかかるという弊害はありますが,互いに自分の考えに沿って歩み寄った妥協点ですから,納得せざるをえないわけですね。聖徳太子「十七条憲法」の「和をもって尊し」の精神は,1400年も生きているですね。

そう考えると,web日記も,出入りが自由で話題も拘束されない掲示板も,互いにモノローグで考えや思いを披瀝しあい,修正(更新)していくという特質をもっていて,日本人のコミュニケーション特性にかなっていると言えそうですね。

という議論は,自分が開設していながら放置したままの「日本web日記学会」のページで展開すべき議論でしたね<(_ _)>

 表現や意見交換や合意形成の場をどのようにカスタマイズしていくかが、CMCのポイントになる。おそらく新しいカスタマイズの仕方を私たちはまだ知らない。だからこそ、こうして試していく価値がある。

 最後にmiyuさんからのメッセージ。

救われた…… 投稿者:miyu 投稿日:11月19日(木)01時59分38秒

日記で取り上げていただいて、ありがとうございました。

ちはるさんとあはさんのやり取りは、少なくとも私にとってはとても実のあるものでした。あれを読んで、すごく感動しました。びっくりしてしまいました。最近、ネットで発言すること自体に、とても空しさを感じ始めていて、結局本当に伝えたいことを伝えることは極めて困難だ、どうせ部分的・側面的にしか理解されないものだ、というような絶望感みたいなものにハマりかけてました。ちはるさんとあはさんのやり取りで、過去の自分まで含めて「これでよかった」という気持ちが浮かんできました。ああいったスタンスで「人と向き合う」人をはじめて見ました。

あれが「議論」として穴のない、整った完璧なものだったら、私は感動しなかったでしょう。

そして日記を読んで、この掲示板で「どんな場であったかは本質的なことではない」「すごい人です」なんて書いてくださっているのを読んで、あ、伝わってる。嘘みたい。すごい。……と、ホロリときてしまいました。ネットやっててよかった。救われた。

正直いって、「ネットやっててよかった」と心の底から思ったことって初めてでした。伝わらないことを確認するために発してるみたいなさみしさがありました。ちはるさんはあのやり取りとそれに続く発言で、ひとりの女の子(←?)を救った。と思ってくださると嬉しい。←つまりよかったのは私だけ?←ごめんなさい