KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

マルチメディアのもう一つの意味

 先月の学芸大学の集中講義で、受講生の一人に全盲の学生がいた。目の不自由な人にとっては、グラフィックベースの最近のパソコンはかえって使いにくい。また授業をするときでも、板書した上で「これ」とか「あれ」といっても通じない。ちゃんと単語をいわなくてはいけないのだ。いろんなことを学んだ。

 そんな彼がレポートとして次のような文章を書いてくれた。本人の許可を得てここに載せる。世の中は(また研究者達も)マルチメディアだ何だと浮かれ騒いでいるが、マルチメディアのもう一つ別の意味、あるいは本当の意味が、この文章から読みとれるのではないだろうか。

これからの教材に望むこと

 私がこれからの教材作りにおいて重要だと考えるのは、だれもが共通して利用出来る物を作るということである。最近ユニバーサルデザインとよばれ、いろいろな領域で求められていることである。

 これまでは、それぞれの状況に合わせたものを作ることが求められてきた。しかし、それは大変な労力とコストを必要とするし、また応用範囲も広がらないことが多かった。これはたとえば、多少工夫をすれば使えるはずの教材を使わず、改めて「障害児用」などといって作ることがあったことなどからもうかがえることである。

 現在、コンピューターの発達によって、あらゆるメディアでの教材作りが可能となった。そんな中で全ての感覚器を利用した教材も作成可能になるだろう。それは、多くの人が学習する時に理解しやすくなるばかりでなく、限られたメディアで作られた教材では理解が困難な人にとっても利用価値がある物になる。しかし、現在のところ、複数のメディアを利用出来るにもかかわらず、一つのメディアを中心にすえ、後は補助的な役割としてしか利用していないことが多いようである。

 重要なのはどちらのメディアにおいても、十分理解可能な教材を作ることにあるのではないだろうか。とはいえ、あらゆる人が完全に理解しうる教材を作るというのは、かなりの困難が伴うと考えられるので、そのさいは理解をおぎなう教材を必ずかつ十分な量を準備する必要があるだろう。これらついては、状況や個人に特化した教材作りが望まれるのはいうまでもない。

 またCAIについて言えば、コンピューターの特性上、正しい答えを設定することは、特定の数に規定されたりと、CAI作成者に一任されている場合が多いようである。コンピューターがユーザーが出すあらゆる答えを予想し、それらを正しい答えの方向に誘導出来るようになるのは、かなり難しいだろう。そういう意味でいうと、CAIは基本的な知識の再確認や選択方式の問題などのように答えが万国共通であるものに利用する方がはるかに作りやすく、また利用価値があるのではないだろうか。それでないと利用者に無用な混乱をもたらす可能性もある。それらを加味したうえでCAIを活用していくべきではないだろうか。