KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

何がバーチャルで、何がリアルか

このように考えて来ると、自然に触れること、生身の人間とのコミュニケーションを すること等は現実を認識するためのきっかけには成り得ても、十分条件ではないことが わかる。一組のカップルが居るとしよう。お互いに、「恋人とはかくあるべし」という 観念を持っており、またその観念に従って相手に対する「良き恋人」を演じている。 この二人は共に自分の虚構から一歩も出ていない。彼等は、アニメ美少女に夢中に なっている連中を笑えないのである。自分の理想と、実際の相手とのギャップに気づいた時に、 そのギャップに従って自分の世界観を広げることが出来て初めて、 現実を認識したことになる。だが、「理想と違うから別れる」と言って現実を退け、 虚構の中に閉じ籠るという選択も有り得るのだ。 同様に、ツアーのようにパッケージ化された「自然体験」は、 テレビを見て築いた虚構の強化にしかつながらない可能性もある。 規格通りの教科書をそのまま覚えたことを試すような試験は、 まさしく虚構の中に生きる人間を生産しているのだ。

またこのようにとらえると、現実を知るということは一回限りの行為ではなく、 自分の世界を拡張しようとする不断の努力に支えられた過程であることがわかる。

  • Island Life(1/22(Fri) 虚構と現実)より

 先日の日記で、下のようなことを書いた。

いまや、子供にとって自然体験は非日常であり、テレビゲームが日常だ。携帯ではなすことがリアルであり、対面ではなすことがバーチャルなのだ。つまりそうした区別は無意味だ。(ちはるの休日日記-1/23)

 学校教育の中で子供たちに自然を体験させることが重要だということがよく主張される。その裏側で、テレビゲームやネットワークや携帯電話といったテクノロジーに支えられた遊びやコミュニケーションに依存的になることが好ましくない、と大人はいいたいのである。確かに一日中部屋に閉じこもってテレビゲームをしているのは健康的とは言えない(あくまでも物理的に)だろうが、それをもってテレビゲーム悪玉論を展開するのはあまりにも単純だ。リアル(現実)とバーチャル(仮想)との線引きはそう簡単なものではないのではないかということを、上の日記で書いてみた。

 いったいリアルであるということはどういうことだろうか。作り物の地球はものすごく作り物に見え、一方、作り物の火星はものすごくリアルに見えるということを聞いたことがある。つまり、地球はテレビや映画などで宇宙船からの映像などを見慣れているので、それが本物であるかどうかに厳しい基準を使う。ハリボテの地球はすぐにニセモノと見破る。しかし、火星はそれほどまでに映像が氾濫していないので、リアルに見える基準は自然に緩くなる。適当に作っても火星らしく見える。

 これからわかることは、私たちはそれが本物か偽物かという判断をするときに、自分が作り上げた内的な基準と比較して判断していると言うことだ。そしてその内的な基準は、本物に触れる機会が多くなれば厳しく確固たるものになり、あまり本物に触れることがなければ、緩く曖昧なものになるのだ。たとえば、新興宗教の神秘体験に簡単にはまってしまう人があとをたたないのはこのためだろう。神秘体験が本物であるか偽物であるかを見破るためには、神秘体験を少なくとも何度か体験しておく必要がある。

 話の展開は、リアルかバーチャルかという次元に加えて、authenticity(本物らしさ)という次元を持ってくる必要がありそうだ。たとえば、パックの自然体験は「本物ではない現実(real/not-authentic)」、出来の悪い教科書は「本物ではない仮想(virtual/not-authentic)」、よくできたアドベンチャーゲームは「本物の仮想(virtual/authentic)」といった具合。

 では、いったい本物らしさとは何なのか。本物である要件とは何か。また考えてみたい。