KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

伝わりすぎるテキスト

——逆だと思うよ。文章では伝わりすぎるんだよ。それも読者が自分で読みたいように増幅されて伝わる。読者はWeb上のテキストを読んで「もしかすると私はこの人の人間性までをも見極めちゃったかもしれない」と思うんだ。まあ、それはファンタジーなんだけどね。もともとファンタジーをもとめてWebページを読むのだからそれでいいんだ。こうしてネットナンパのお膳立てができるわけ。

それは一種の誤解というか誤読でしょ。誤解されて伝わるということは、伝わっていないということだ。

——いや、誤解されて伝わるように意図されて作られたテキストが、きちんと誤解されて読まれるということは正しく伝わったということにほかならない。つまり、知性がただようテキストだと思わせるように書いたテキストを女性読者が読んで、「なんだか知性がただようテキストだわ」と思えば、それはパーフェクトに正しく伝わったのだ。だから熟練したネットナンパ師のテキストは一級品だといえる。

ううむ。

——一般に、短く、曖昧で、情緒的なテキストは伝わりすぎる。もちろんその大部分は誤解なんだけど、「伝わった」とか「共感した」とか「感動した」という感覚を読者に与えすぎる。逆に、長く、明晰で、論理的なテキストは伝わらない。詳しく書けば書くほど「伝わった」という感覚を読者にもたらさない。なぜならば、書けば書いただけ読者の求めているファンタジーを裏切るからだ。自分のファンタジーを広げる余地をなくされた読者はその文章の意味が完璧にわかっても「伝わった」とは白状しないものだ。それは最後の抵抗である。

今日はやけに雄弁だなあ、人工知能

——「雄弁は銀」。とにかく「感動しました」という反応を信じないことだね。もしそれをもらったら、不名誉なことと考えていい。そう簡単に感動しないでほしい、と。しかし、「読者を感動させてやろう」という意図がもしあなたにあれば、それはあなたの完全勝利だ。

あのさ、もしこの日記を読んで誰かが「感動しました」とメールを送ってきたらどうする?

——そうね……。素直に喜ぼうかな。小踊りして。