KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

Web日記を一年間続けた副作用

 ふう、やっと1999年の分の日記ファイルを整理し直した。今まで「991214.html」のようなファイル名だったのを、フォルダを作り直して「1999/12/14.html」というような形になった。以前のファイル名で私の日記にリンクしていただいている場合はリンク切れになるので、修正のお手をわずらわせることになることをお詫びしたい。

 それと同時に、キーワードをつけて、索引を作っていったのでずいぶん時間がかかった。索引の方はまだ6月までしか終わっていない。これも検索エンジンにまかせればいいのかもしれないが、キーワードを決めながら、自分がどんなことに興味を持ってきたかという変化がよくわかって面白かった。他の日記からの引用やコメントなどを書いた場合はその日記名をキーワードとして登録しているので、自分の日記をさがしてみるのも一興かもしれない。

 しかし、一年間よく書いたものだ。感心する。Web日記を書くためにつぎ込んだ時間は膨大なものだ。日記を一年間続けたために何か生活に変化が生じただろうか? もしあるとすれば、それはお金を使う遊びをしなくなったということだ。

 カラオケも行かないし、パチンコもしない。映画は年に2、3本しか観ない。ビデオも借りない。本もあまり読まなくなったような気がする。酒はもともとあまり飲まないが、飲み会はほとんどいかない(誘われもしない)。

 ひとつ言えることは、もしWeb日記を趣味として楽しんでやれるならば、これほど安上がりなものはない、ということである。

 拡大すればこう言えるのではないか。つまり、消費としての遊びはお金がかかるが、生産することを遊びにすれば、これは限りなく安上がりである。たとえば、1時間をつぶすのにゲーセンやカラオケに行けばそれなりのお金がかかる。しかし、1時間かけて日記を書いても、かかるのはパソコンの電気代くらいなものである。夢中になれば2時間、3時間はすぐにつぶせる。時間をつぶすのには、文章を書くというのは最適の行為である。

 しかし、仕事としてみれば、文章を書くということはなんと効率の悪いことか。3時間うんうん粘っても、数行しか書けないこともある。実は今、仕事としての文章を書かなきゃならないということがあるのだが、筆の進まないときは本当につらい。そのテーマが「文章の書き方」だったりするから、ほぼ自殺行為である。

 同じ「文章を生産する」ということでも、仕事と遊びとでは天と地ほどの差。もし仕事を遊びに変換する魔法があれば、人々に喜ばれる大発明となるのだが。