KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

教えるほどに受け身になっていく

あと2週間で、春学期(前期)もめでたく終了となる。

今期は「コンピュータシステム入門」という科目でunixの入門を教えている。Mac OS Xという環境は、これを教えるにはなかなかよい。

こういう実習型の科目はPSI方式で教えるのが最適であることは確信している。けれども今回はWeb教材を作る準備期間がなかったので、教科書を指定して、レクチャーしたあと、各自実習し、通過テストを受けるというレクチャー・実習方式をとった。

ここまでで感じたことは、PSI方式とレクチャー・実習方式ではやはり違いが大きいということだ。やっている内容はにているにもかかわらず、まったく違うのだ。一番の違いは、レクチャー・実習方式では「教えてもらう」という構えが強くなってしまうことだ。PSIでは、「自分でやらなくては進まない」ということで、しんどくてもなんとか自分でやっていくという構えが自然に作られるのと対照的だ。

つまりレクチャー・実習方式では、自分ができないことを何かのせいにできるのだ。教え方や教科書が悪いのかもしれないし、実習が不十分なのかもしれないし、そもそもやっていることが「難しい」のかもしれない。また、たまたま一回休んだときに重要なことをやったのかもしれない。いずれにしても、それは「自分のせい」ではないのだ。

PSIでは、進まないのは自分のせいだ。休むのも自由だが、休んだせいで遅れるのは完全に自分のせいなのだ。つまりいいわけがたたない。教材は難しいかもしれないが、好きなときに質問する権利が完全に保証されているのだから、その権利を使わないで不平をいうのは通らない。

学習の主導権を完全に学生自身に渡すことによって、彼らは自ら学ぶ機会を得て、そのスキルを伸ばすことができる。どんなにうまく教えても主導権が教員にある限り、それは限界がある。うまく教えれば教えるほど、学習者はますます受け身になっていく。それは本来の目的とは逆のことなのである。

教えることはいかに教えないかということに収束していく。