KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

教える人と教わる人の関係

教えることはいかに教えないかということに収束していく。

きのうは、こんなようなわけのわからないことを書いた。教える人と教わる人の関係はいわば複雑系のようなもので、ちょっとしたきっかけで、ひどく悪い関係になったり、とても良い関係になったりする。

それは、教える人が持っている、教わる人についての先入観と自分の行動、それから、教わる人が持っている、教える人についての先入観と自分の行動によって規定される。

もし教える人が「この人たちは私が何か命令しなければなにもしない」と考えていれば、命令口調で指示するだろう。それはよかれと思ってそうするのだ。しかし、教わる人は、それに対して、「この人は私に対して何か指示しなければ私が何もしないと思っている。嫌な感じだ。それならば言われない限り何もしてやらないことにしよう」と考えるかもしれない。そうして、両者はお互いの信念を強め合っていくことになる。自己成就的予言である。

逆に、教える人が「この人たちは私が何も言わなくても自発的にやってくれるに違いない」と考えていれば、何も言わないだろう。教わる人は、それに対して、「この人は私に対して何も命令しない。私を信頼しているのだ。それならばその信頼に応えるように行動しよう」と考えるかもしれない。そうして、両者はお互いの信念を強め合っていくことになる。

これらのことはまったく同じ過程を経て、まったく正反対の結果に導く。その分水嶺はどこにあったかというと、一番初めに持っていた信念の違いだ。

しかし、だからといって信念を変えればうまくいくのだ、とは私は思っていない。「何も言わなくても自発的にやってくれるだろう」と信じている教員がしばしばアナーキーなクラス行動を導く例がある(しかもそれをまずいと考えていないことも多い)。ここらへんの事態の進み具合は予測不可能なことが多く、それを複雑系のようだといっておきたい。

おそらくポイントは、教える人の信念と行動の一貫性にあり、それが表面化するときの文脈との絡みにあるのだと考えている。