KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

学生の成果を奪う教官

 「ハラにイチモツ」(99.2.26)で「学生の成果を奪う教官」について読んだ。学術論文を誰が書くか、誰の名前で出すかは、就職や昇進などの重要な要因になることが多いので、うやむやにするのはまずい。筑波大学の院生が投稿した論文の第一著者が、出版の過程で指導教授の名前に替えられていたという事件があった。これは裁判を起こした院生が勝ったと記憶している。

 論文や本の著者として誰の名前をどういう順番で出すかは、その研究室の慣習や日本的あうんの呼吸で決められることが多いので、あとでもめることが少なくない。私自身は次のような原則を持っている。

 共同研究の場合、共著者として名前を連ねるには少なくともその研究の全容を把握していて、ディスカッションに加わっているということが必要だ。たとえば統計分析の計算を手伝ったからといって連名にされるのは困るので、連名ではなく謝辞に書いてもらう方がありがたい。立場が対等な研究者同士の場合は、こういうことは研究打ち合わせの段階で決めることができるのであまり問題にならない。

 問題が起こりやすいのは、大学教員とその指導学生の共同研究の場合である。指導学生が学部生である場合と大学院生である場合は、状況が違うので分けて考える。

 教員自身の研究テーマを学部生の卒論としてやってもらうケースがある。この場合、そのデータをもとにして論文を書いた場合は、学部生の名前を謝辞で言及することによって感謝する。これはその学生が研究者を目指して大学院に進まない場合であり、院に進む場合は次の大学院生のケースに準じる。

 院生が研究をして論文を書いた場合は、そのテーマをスーパーバイズしているとしても、院生が第一著者であり、自分は連名の最後につく。スーパーバイズの度合いが弱い場合(つまり院生のオリジナルの考えでほとんどの研究を進めた場合)は、院生単独名とし、自分は謝辞で言及してもらう。これはその院生の就職を考えれば当然のことであろう。それでもなお自分が第一著者であろうとこだわる教員がまれにいるので、そういう人についた院生は苦労するのではなかろうか。非常にまれだが、せっかくよいデータが取れたのに、院生がそれを文章化することのできない場合がある。この場合はその院生との合意が取れれば教員が書くことがある。この場合は、実質的に論文を書いた人が第一著者になるべきだろう。

 まぐねさんの日記で知ったのだが、アメリカの大学では教授がまずレター論文(速報)を書き、そのあとで指導学生がフルペーパーを書くことがあるそうだ。これはよい方法だなと思った。