KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

タダのもののレベルは上がらない

 前期の授業もあと三回ほどで終わりになる。私が今期担当したのは一年向けの言語表現と情報処理だった。授業で使うテキスト(教科書)について少し考えてみたい。

 私は授業であまりテキストを利用しない。自分が書いて出版されたテキストがないこともあるが、たいていは自分でプリントを配布しながら進めていく。もし自分の教えることがあまり変わらなければいいテキストを使って授業をしたいと思うのだが、教える内容も教え方も年が変わるたびに何かしら変わったことをやりたがる癖があるのだ。

 自分が同じことを二度やりたくないということは、今期言語表現と基礎ゼミで2クラスを受け持ってみて実感した。言語表現では受講者があまりにも多かったので、60人のクラスと20人のクラスとに分けた。また、基礎ゼミでは20人を2分割して同じ内容をそれぞれに教えた。両方ともプリントを作ってそれに基づいて教えているので、自然と話す内容も同じものになるのだが、同じことを(たとえ違う相手にでも)二回話すというのは実にいやーな感じがするのである。自分がロボットになったような感じがする。面白い話をある人から聞いて、適当な時間たったあとに、その人から聞いた話を「ねぇ、面白い話があってね」とその人に話してしまったあとのばつの悪さ、みたいなものがある。

 しかし、情報処理科目は例外的に自分で書いたテキストを使っている。これはプリントとして使っていた時代から何度もシェイプアップしてきたので、自分で言うのもなんだが、かなりよくできている。教える内容がほぼ決まっているということも幸いしたのだろう。私としてはこれは単独のテキストとして存在して欲しいのであるが、情報処理科目用のテキストの一部として冊子になっている。そして、それはタダで学生に配布されている。

 情報処理科目テキストは複数の人が分担して書いた原稿を集めたものだ。その冊子をタダで配った。実に気前のいい話だ。したがって、分担執筆者への報酬はゼロである。それでも私を除いて誰も文句は言わないようだ。とても気前のいい話だ。原稿を書くことがどれほど大変かを知っている私には、他の執筆者は神様であるとしか思えない。私はせめて著作権は放棄しないぞという意味を込めて自分の担当分の最初のページにはCopyright表示をした。

 報酬なしで原稿を集め、冊子を作り、タダで配布する。こういうことを続ける限り、このテキストはこれ以上良くならないと断言する。まさにタダのもののレベルが上がるはずはないのである。そうだとすれば何よりもこのテキストを使う学生が被害者である。

 もちろん、この内容をホームページで提供することもできる。むしろその方が、更新可能性からもハイパーテキストの柔軟性からも面白い試みができるわけなのだが、問題は課金なのだ。週刊SPA!97.7.2号の「渡辺浩弐のバーチャリアン日記」の中で、「タダのもののレベルが上がっていくはずがない」と述べられている。ホームページを閲覧するときの課金システムがまだうまく動いていない現在、テキストの内容を冊子として出すことの意味は、それが課金システムとして使えるからなのだ。冊子を購入することによってその中の情報を手に入れているというわけだ。

 本は情報を物質化するためのしかけであるが、同時に金を取るシステムとしてうまくできていた。見かけ上、お金と、本という紙の束とを交換する。その意味では、学校も(教育という)情報を物質化するしかけであった。教室にみんなを集めて授業を行うことによって、金を取る理由として納得させてきたわけだ。しかし、これからの時代、情報を物質化せずにそのまま閲覧できるコンピュータとネットワーク環境が整うと、新しいしかけが必要になってくる。学校も例外ではないだろうが、この話題はまた別の機会に。