KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

対話と独白

 ホームページに日記やら個人ニュースを書いているが、これはいわば独白、あるいはひとりごとである。もちろん読者はある程度想定してはいるが、第一の読者は自分自身である。その意味で独白なのである。一方、会議室では、対話である。ニフティサーブのフォーラム会議室を一度のぞいてもらえばわかるが、そこでのメッセージは基本的には一人の話し相手に対して書かれたものである。もちろん二人だけがわかる話ではなく、それを読んでいるその他大勢の読者を意識したものではあるが(その証拠に二人だけで通じる内輪話を始めるとすぐに外野からブーイングが来る)、形式上は対話なのである。

 さて、ニフティのフォーラムで結構たくさんの書き込みをしていた私は、なにがきっかけか、あまりメッセージを書かなくなってしまった。きっとその対話の形式にしたがうのがつらくなってしまったのかもしれない。そこでは、話の主導権は最初のきっかけを書いた人が握る。その相手をしようとする人は相手のペースやキャラクター、興味、文体などに合わせなくてはならない。せっかく返事を書いたのに、一週間、二週間、とそのままにされることもあれば、一日のうちに何度もやりとりをしてしまうケースもある。そのペースは相手によってひどく違う。これはけっこうしんどい仕事である。

 その後、こうしてホームページを書くようになった。フォーラムでの対話に比べるとこの仕事は自由である。いつでも自分の気が向いたときに、書くことができる。あたかも自分の部屋の模様替えをするように、思いついたときに、自分のページの雰囲気を変えることができる(これこそが「ホーム」ページであることの核心かもしれない)。自分の書いたものをページに公開するペースは自分で決めればよい。少しくらい更新がなくても、メールで文句を言ってくる人はほとんどいないだろう(文句を言う人が複数人いるとしたらそれは人気ページであることの証拠だが、そうなるとそれでまた気が重い仕事になるだろう)。

 プライベートなホームページに載せる文章は一種の独白であるから、あまり読者を意識する必要はない。わざわざ「日記」と名前を付けているなら、なおさら読者はいないと考えて書く方がいい(そのほうが読む方も気楽である)。しかし、この矛盾はすごい。全世界につながれたネットワークの上で(注)超プライベートな独白を綴るわけだ。これこそ新しい時代の独り言かもしれない。しかも、この独り言は他人の迷惑にならない。なぜなら、独り言を聞くためにホームページにアクセスする人はそれを覚悟してアクセスしているからだ。一度懲りれば二度とは来ない。

(注)まあ「全世界につながれた」というのはレトリックにすぎない。それは大変な努力をしてあなたのURLを探して、見ようと思えば見ることができるということにすぎないのであって、全世界の人があなたのページを見るということは実際上あり得ない。インターネットについてはこうしたレトリックが横行しているので注意が必要だ。たとえば、でたらめの電話番号をプッシュすればどこかの電話を呼び出すことができるかもしれないが、それは電話線がつながっていることの証拠にはなるが、それ以上の意味はない。それを「やっぱりネットワークってすごいよね」というのはいささか単純すぎるだろう。

 おそらく、ホームページを書いている人は、自分のページへのアクセス回数が一番多いはずだ。しかもたくさん書けば書くほど、その分だけ他のページをサーフィンする時間は少なくなるのである(ネットサーフィンする時間は長いものになりがちだ)。これは面白い対照である。たくさんネットサーフィンする人は、面白く、魅力的なページをたくさんながめることによって満足し、自分でページを作ろうという気持ちは小さくなるのではないか。こんなふうにして、道は二筋に分かれていくのかもしれない。