KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

SCSによる研究会/教育工学の理論と実践

 教育工学会の研究会に出た。大テーマは「教育実践研究の設計と評価を考える」であった。今回は通常の研究会とは形式が違い、SCS=スペース・コラボレーション・システム、つまり衛星放送で各地をつなぎ、テレビ電話の大型版で研究会を進めるというものだ。鳴門教育大と上越教育大をキー局(送り出し画面の選択権を持つ)として、メディア教育開発センター、岩手大、金沢大、岡山大などのサテライトからの発表を聞くことができる(写真参照)。  

 富山大にはまだSCSの設備がないので最寄りの金沢大にいって午前の発表だけを聞いてきた。このSCS方式については「使える」という印象を持った。

 通常の研究会と違うのは、まず会場に漂う緊張感がないことだ。テレビ番組を見ているような感じなので、サテライト会場には張りつめた緊張感がない(金沢会場のお客が約10人と少なかったからかもしれない)。発表を聞きながら弁当でも食べられそうな感じだ。この気楽な感じはいいかもしれない。

 次に発表が聞きやすい。これは放送を考えてもらえばわかるが、通常の会場形式では発表者によっては声が小さかったり、OHPの字がひどく小さかったり、周りの雑音がひどかったりで、物理的にはじめから聞きにくい場合がかなりある。その点SCSでは、マイクで発表者の声を拾い、資料をカメラで大写しにするので見にくいこともない。

 最後に質疑応答が聞き易いことだ。通常では質問者にはマイクが回らないことが多く、質問が聞きにくいのだが、SCSでは質問者もカメラでクローズアップされ、はっきりと映し出される。質疑のやりとりはうやむやで終わることもなく、白日の下にさらされる。たとえて言えば、メーリングリストでの質疑に似ている。質疑のやりとりをビデオに撮っておけば、それは「ログ」として残るわけで、ごまかしがきかなくなる。その一方でそれを見ている観客の方は意外にリラックスして聞いていられるのである。この落差が面白い。

 できれば、教育工学会の研究会はすべてSCSで流して欲しいと思う。また、距離の離れた大学同士を結んでゼミ発表をしてみてはどうだろう。かなり面白い効果がでるのではないだろうか。

佐賀さんの発表

 さて、聞いた発表の中では、メディア教育開発センターの佐賀啓男さんの発表がいつものとおり内容の濃い発表だった。

 佐賀さんの問題意識は、教授デザインや教育メディアについての研究が、なぜ教育実践の現場で活かされることが少ないのかということにある。佐賀さんはこの原因について、シマハラの論文を引用して次のように挙げる。

 1. 知識・技能だけでなく全人格の教育を強調する。

 2. 学校経営の意志決定が集団的であり、管理業務まで教師が負担。

 3. 独自の教職文化への参加と再生産。

 こうした問題については私自身も感じてきていた。教職にある人の大部分は、研究も理論も好きではないし、そんなものにつきあっている時間はない。日常的な生徒への対応と授業や行事の準備、学校管理業務で手一杯である。自分の実践を研究として成立させたいという少数の人(こうした人が教育工学会などで発表する)にしても、まず自分の実践ありきであり、それを裏付けるために流行の理論をつまみのように持ち出している。また高校までは教科書や指導書というものがあり、それが研究計画の足枷にもなっている。

 結論としては、サロモンの言うように、フルート(実験的・分析的研究)とオーケストラ(生態学的・全体的(systemic)研究)の両方の研究が必要である、というところに帰着する。確かにその通りではあるが、私見では、教職文化は相当強固であり、オーケストラの研究はまず、企業内教育・訓練や、塾や予備校、通信教育などの学校外の教育システムで始められていくと思う。大学教育も縛りが少ないことや教職文化が弱いという意味で研究フィールドになりやすい。学校教育が変わるのはおそらく最後である。

 教員の間には、自分の教育実践を研究するということにアレルギーがあるかもしれない(たとえば、お茶大の無藤さんのMutoNews No.166「子どもをモルモットにするな、はもっともか」で指摘されるように)。

 佐賀さんの発表に対して鳴門教育大の西之園さんが質問した。それは、哲学通りに自分なりの店を出すのが哲学者の生き甲斐だが、日本人はその店の中に入り込み、くまなく調べ、時には店の主人よりも良く知っていたりする、というたとえを出して、自分の理論を作ることが大切だと切り返すものであった。

 これについて、自分の理論を作り上げることが大切ということに反論はないが、これは日本の実状には当てはめられないと思う。自分の理論を作るためにはこれまで公にされた理論を把握することが第一の仕事だろう。しかし、日本では、欧米産の教育工学の理論を輸入し、それを応用することを、珍しくも、怠ってきたように見える。佐賀さんのような人が研究者集合の中でも少数派なのが証拠である。