KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

ゼミ再考

 研究室、あるいはゼミというものについてもう一度考えてみた(前回はNo.31)。ここで言いたいのは、ゼミとは、たとえばクラス分けのように第三者的に決められるものでもなく、あるいは丁稚奉公のように自分の身を捧げるものでもない、ということである。では何か?

 ゼミはひとつの共同体である。出入り自由の共同体である。共同体ということの意味は、その共同体を維持し続けようという意思のあるものが少なくとも一人いるということだ。その最後の一人は、私自身だ。その他にその共同体を続けようと思う人が数人いるかもしれない(それはマスター生であったりする)。

 このゼミには、来たいと思うものが来る。出入り自由である。そのゼミが提供しようとするものから何かを得たいと思うものが来る。続けたいと思うものは続け、辞めたいと思うものは辞める。一時辞めていて、再開したいものは再び舞い戻る。ゼミは継続的にそこにあるので、いつでも出入り自由である。

 ゼミに参加することによって単位を得ることができる、あるいは卒業するためにはそうした単位をとることが必要である、ということを制度化した時点で、ゼミの意味は変質した。ゼミは単位を獲得するための手段になりさがってしまった。自発的にゼミに参加するのではなく、義務として出席するだけのものになってしまったのだ。

 また、卒論や修論を書くために、どこかのゼミに「所属する」という形を作ってしまったために、ゼミは卒論や修論を書くための道具になりさがってしまった。本来は、卒論や修論は個人の努力の結果であって、どこのゼミに所属しているかということとはまったく関係ないのだ。

 したがって、ゼミを再生させるためには、単位と、実質上、無関係にならなくてはいけない。そうしてこそ、ゼミを出入り自由の共同体として復活させることができる。そこでは専攻や学年に関係なく来たいものが来る。真に自分がおもしろいと思っている人たちが集まる場になる。そうしてこそ学びの場が構築できる道が開ける。

 こうした考えはラジカルすぎるだろうか?そうかもしれない。しかし、最近の私には、義務としてゼミに出るという形、単位をとるためにゼミに出るという形が普通になってきたということがあまりにも耐え難くなってきたのだ。それはやはり本来の形とは違う。それだけではなく、ゼミというものを汚していると思うのだ。

 順番を決め、おざなりの発表をして、おざなりのコメントをする、そういうのはもういやだ。本当に自分が面白いと思っているものを自発的に話し、それを発展させていく、それがゼミの場というものではなかったか。それをもう一度取り戻したい。