KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

世話することのたいへんさ

 3月14日に子供が初めて八尾にある自宅に来た。1月8日に生まれてからそれまで、魚津にある妻の実家にいたのである。

 子供が家にいると子供中心の生活になると聞くが、まさにそのとおりだ。夜七時半に家に帰ると、子供をあやし、ミルクを与え、お風呂にいれる。それからまた、あやし、ミルクを与え、眠りにつくまで抱っこする。ほとんど自分の時間は取れない。これを妻は一日中、しかも昼間は一人でやっているわけだから、偉いものだ。心から尊敬してしまう。

 一番たいへんな仕事というのは他人の世話をすることである。そして一番楽なのはマイペースで自分の好きなことをやることだ。よく世の中の人は、自分の好きな仕事を見つけ、頑固一徹で、家族からも離れ、そのことだけに打ち込み、苦節何十年かですばらしい芸術作品などを作り上げた人の仕業を、すばらしいとほめ、その人をたたえるが、実はそれはほめすぎである。なぜなら、自分の好きなことをやっている本人にとってはそれが一番楽なことだからである。

 さらに、どんな素人であっても、一つのことに打ち込むことを五千時間続ければプロの領域に達するということが認知心理学の学説として確立している。他人や家族に煩わされることなく、毎日、一日五時間を自分の好きなことに打ち込めるとしてみよう。計算すれば、たった三年間でもうその人はプロの領域に達するのである。それはその人が努力家だとか、苦労人だとか、そういう要因とは無関係に、そうなるのである。つまりその仕事が好きだということと、一日五時間打ち込める(好きな仕事であれば嫌になることなく、それくらいは集中できるし、土日も休まずできる)という条件が成立すれば、誰でも、三年後にプロになっていまうのである。そう考えれば、苦節何十年というのはむしろ長すぎるくらいであるし、自分の好きでそれをやったということであれば、やはりほめすぎ、驚きすぎなのである。

 普通の人はどれくらいの時間をかければどれくらいのことができるかということを予想できない。だが、誰でも(これが重要だ)、五千時間でひとかどの人間になるのである。問題は、その人の才能や素質なんかではなくて、五千時間を一つの仕事に捧げるための条件が成立するかどうかの一点にかかっているのだ。その条件とは、具体的には、ある仕事を好きになることと、五千時間をそれに捧げることが可能であることの二つである。

 普通の人たちは、好きな仕事があったとしても、それに五千時間を捧げられない。会社の仕事はたとえ面白いものであったとしても、それだけに打ち込むことはできず、上司や部下の面倒を見なくてはならない。ときどき、まわりに関係なく自分一人で仕事ができればどんなに楽で楽しいことか、と感じることがある。これが仕事の本質的な点だ。一人でやることは楽なのだ。その仕事が好きなものであればなおさらだ。しかし、仕事に絡んだ他人の世話、具体的には上司への相談や報告、部下への指示や動機づけ、こういった周辺的な仕事が気を重くさせ、仕事をたいへんなものにしている。会社にいる時間の大部分は、連絡や打ち合わせや会議に費やされ、自分一人で作業できる時間は驚くほど少ない。

 世間の人は、他人にかまわず自分一人で黙々とやる人をほめ、他人の世話をする人のたいへんさを見逃す。他人の世話をする仕事についている人、たとえば、子供の面倒を見る人、老人を介護する人、会社の管理職、プロジェクトのリーダー、保母さん・保父さん、学校の教師、こういった人々こそたたえられるべきである。しかし、他人の面倒を見るということは、誰にでもできること、いわば人間の本性である、と思われているので、そのたいへんさが過小評価されているのである。だれでも自分の子供の世話をすれば、そのたいへんさがわかるのに、それが過ぎ去れば、自分にもできたのだからそれほどたいへんなことではないという思いに変化してしまうのだろう。しかし、それは大きな錯覚である。人が自分の子供の面倒をなんとかできるのは、自分の子供を世話するという、本能の仕掛けによってなんとか達成されていることだ。他人の面倒を見ることのたいへんさはそれとは比較にならないほど大きい。

 子供の話から始まって、変な展開をしてしまった。しかし、これは随想だからこれでいいのである。で、子供のいる生活の話の続き。

 自宅では子供中心の生活になったが、もともと私は、大学の仕事を家まで持ち帰らないし、家ではいっさい仕事をしないのであまり問題はない。家でするのは、パソコン通信での読み書きと、本や雑誌を読むくらいのものだ。それからこのchiharuNewsもたいていは自宅で打っている。そのためかニュース記事を書く頻度は少し少なくなったような気はする。しかし、これも大学の仕事に組み入れて、大学でやるようにしてしまえば問題はない。

 子供中心の生活になったということと並んで感じることは、自分のスペースが少しずつ奪われていくということだ。子供用タンスを新たに購入するために、五畳程度の自分の部屋の本棚二本のうち一本を空にして解体する。それからCDが一杯に詰まっていた、CD棚を大学に持っていく。本棚にはいっていた本と、CD棚のCDはすべて大学の研究室に持っていくか、その一部は処分することになる。

 このようにして自宅では自分の時間と自分のスペースが徐々になくなっていく。世に言う「おとうさんの居場所がない」ということや、すぐには自宅に帰らずに会社の帰りがけに赤提灯に寄っていく習慣の存在理由が、深く納得できることになる。私も子供が来て初めのうちは、研究室の時計が夜七時を指しても、こう思ったことがあるくらいなのである。

「ああ、このままずうっと仕事をしていられたらどんなに幸福だろう」

 しかし、自分の子供の愛らしさは、こうした思いと拮抗するように作られている。神様は天才的な設計者である。