- 作者: 高山博
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1998/06
- メディア: 単行本
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学者、つまり、人類の知的共有財産を増やすべく奮闘する学者は、大学教員のなかでは少数派だという事実を忘れるべきではない。大学教員や知識人の大部分が現実に行っている活動は、教育や啓蒙活動であり、私の区分けでは、ソフト・アカデミズムのほうに入る。教育や啓蒙活動のための準備も「研究」と呼ばれるが、独創的な研究成果を求めるハード・アカデミズムの「研究」とはまったく異なる。
この本の主張は次のようだ。
- 大学教員の仕事を、研究と教育とに分けるのは曖昧で意味がない
- それに代えて、新しい知を作り出すハード・アカデミズムと、すでにある知をわかりやすく広く伝えるソフト・アカデミズムとの分類を提案する
- メディアではハード・アカデミズムの橋渡しをするソフト・アカデミズムが必要である
- ハード・アカデミズムの人がわかりやすく説明できるにこしたことはないが、彼らは国際的な激しい競争のなかにあり、それは不可能である
- 少数のハード・アカデミズム指向教員と、多くのソフト・アカデミズム教員との差別化、別待遇化は不可避である
- 大学自体もハード・アカデミズム指向か、ソフト・アカデミズム指向かによって戦略を変化させることが不可避である
著者は非常に冷静である。本に記述された材料---たとえば教員の業績が上がらないのはそれを評価するシステムがないからだなど---はこれまでにも言われてきていることであるが、それをハード・アカデミズムとソフト・アカデミズムの新しい切り口で整理し直している。それがこの本の創造的な部分である(と思う)。
さてと、それはいいのだが、私はどうしようか。ソフト・アカデミズム陣営の要員であることは明らかなのだが(「軟派」ということだな)、それだけでは寂しい気が自分ではするのだ。願わくば、少しは「新しい知」を作り出すこともしたいと思うのだ。しかし著者の言うところによると、ソフトをやりながらハードもできるほど、甘い世界ではないらしい。そのことは想像できるのだが、そう言い切ってしまうと、ハード・アカデミズムの世界をあまりにも狭く限定しすぎている気がする。エリート主義と言うべきか。
うーむ、ここまで書いてきてわからなくなった。結局、だから何だというのだ。この本が言いたいことは何なのだ。だれにどうせよというのか。そこが見えないので不満が残る。
日本の学問の世界、教育の世界は、現在、さまざまな問題を抱えている。しかし、私たち日本人がもっている優れた潜在能力を忘れるべきではない
などと持ち上げられても、じゃあ、どうしたらいいのか。潜在能力を潜在のままで終わらせてしまわないためにどうすればいいのか。そこが聞きたいのに、はぐらかされている感じだ。著者自身が十分すごい人だということはわかるのだが。結局そういうことなのか。(なんだかナンシー関みたいな終わり方をしてしまった)