KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

アナロジーの呪縛

 8月29日のNHK土曜特集は「あなたの知らないクルマの世界」という番組で、自動車の進化の歴史を手際よく見せてくれた。

 今の形のハンドルが生まれる前は、小さな船の舵取りのような一本の棹を前輪に取り付けていた(*)。しかし、それだとカーブを曲がるときに遠心力によって運転手が振られてしまい、横転する事故が多かったそうだ。今のハンドルは安定した姿勢で方向を変えることができる大発明だったのだ。さらに、現在ではハンドルの次の世代の舵取り装置としてゲームのようなグリップ型のものが開発されつつあるとのこと。

(*)今書いていて疑問に思ったのだが、蒸気船などの舵取りにハンドルが使われていたということはなかったのだろうか? そしてそれを自動車のハンドルに応用したということは?

 それで思うのは、人間が何か新しい道具を発明するときには、その元になっているものの影響力から逃れることが難しいということだ。これを「アナロジーの呪縛」と呼んでみた。たとえばハンドルが考え出されるまでは、船の舵の形から逃れることが難しかった。

 一例として、マウスの発明は偉大だと思う。画面上の一点を指し示すための道具として当たり前に使われるようになったが、この形を最初に考え出した人はすごいと思うのだ。

 パソコンの話に跳ぶと、パソコンOSの世界はアナロジーとメタファーの天下である。たとえば、デスクトップ(机の上)、ファイル、フォルダ、ゴミ箱といったものはまさに現実にあるそのものを元にしている。しかし、パソコン上ではファイルの中にファイルを入れるというような、現実ではやらないことをよくやっているが、あまり不思議に思わない。これがメタファーの力だろう。

 アプリケーションもそうだ。たとえばワープロは私たちが紙の上に文字を並べたり、図表を配したりすることを模倣する。しかし、何もそうする必然性はないのだ。もちろんそうすることが使いやすいのでそうしている。アナロジーの力によってすぐ理解できるからだ。しかし、逆に、アナロジーの及ぶ範囲に閉じ込められているとも言える。ワープロ文書に図形を貼り付けるときに、初心者が必ずつまづくのは、文字のモードで貼り付けるのか、図形のモードで貼り付けるのか、の区別である。図形モードで貼り付ければ、画面上で自由に移動できるが、文字モードではできない。図形がひとつの文字として扱われるからである。これが理解できないのは、アナロジーの中には「モード」という概念がないからである(**)。そしてパソコンがよくわかったと感じるのはこういう概念を獲得したときである。

(**)ただ、日常でも「今、私は【怒りモード】です」というような形で「モード」という言葉を使ってはいる。しかしそれは「気分」のようなもので、パソコンで使われているような厳密なものではない。

 電子メールは郵便のアナロジーである。Webページは壁新聞のアナロジー。こうしたアナロジーを一度捨て去って発想することで、まったく新しい道具とその使い方が生まれるのかもしれない。