8月31日の日記で書いたが、土屋賢二のファンである。彼は週刊文春で「棚から哲学」という1ページの連載エッセイを持っている。1ページのエッセイだが、驚くべきことにほとんど内容がない。全編これギャグである。登場人物は本人とその妻と、おそらく職場の大学の誰かをモデルにしたものであろう助手という人がよくでてくる。筆者がどこに行くわけでもなく、何をするわけでもなく、妻や助手相手にひたすらギャグを考えたり、話すだけというシンプルさである。しかし、それだけに無から有を生ずるような感動がある。
今日はそのギャグの構造を分析してみよう。先週号の連載の冒頭部分から(説明の便宜上、番号をふってある)。
(1) 高熱が出た。
(2) 39度以上の熱が三日間続いた。
(3) だが、どういうわけか、苦痛も不快感もまったくない。
ここで読者は当然「熱があるのに苦しくないのはなぜだろうか」という疑問を感じるはずだ。次の文で著者がその説明をしてくれるだろうと期待する。しかし、著者はそれを裏切ってこう続ける。
(4) もし今すぐサッカーのワールドカップの試合に出ろといわれたら、
(5) サッカーのルールを教えてもらう、という条件つきで
(6) 引き受けただろう。
この部分はまったく無駄なギャグである。ただ熱があるけど苦しくないということを強調するために何の関係もないワールドカップを持ち出している。しかし、ウソはいっていない。「もし」で始まる仮定文なので、ワールドカップに出ろといわれるなんてことは可能性がゼロであっても、この文は正しい。しかも、その中で、著者はサッカーのルールを知らない(5)という小ギャグを挟んでいる。
次の段落でやっと説明を始める。
(7) 発熱が苦しくないのは、おそらく、熱を出したのが妻だったためだろう。
何が「おそらく」である。ここで読者はやっと熱を出したのが妻だとわかる。日本語が主語を省略可能であるという特性を逆手にとって、ここまで無意味なギャグを生む著者、恐るべしである。
(8) それにしても39度というのは
(9) 風呂の温度としては低めだが、
(10) 体温としては異常な高さである。
ここでも小ギャグ(9)を挟んでいる。間違ったことはいっていない。39度は確かに風呂の温度としては低い。しかし、体温の話をしているときに風呂の温度を持ち出す人はいない。すべて論理的に正しいことをいいながらナンセンスを作り出す。
(11) 熱は防御反応だというが、
(12) 妻も防御に回ることがあるのか。
これがとどめである。多くの書き手がそうだが、土屋の場合もその題材を配偶者に求めたときに最も輝きを増す。
分析はここでやめるが、全編この調子である。この回の内容を要約すれば、
- 妻が熱を出したが、一週間後に直った。
という話であった。それだけの話を論理ギャグで埋め尽くして連載一回分を作るのである。ときどきオヤジ的ダジャレが目に付くものの、奇抜な言葉遣いを抑制し、ただひたすら論理でギャグを積み重ねて行くところに、著者の哲学者としての禁欲主義と孤独を私は感じてしまうのである。十分笑ったあとにふと人生を考えてしまうのはそのせいであろうか。