KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

「ですます体」の妖しい力

 先日、ある原稿を書いたのですが、それは本の決まり事として「ですます体」を使って書くことになっていました。ふだんは私が書く文章のほとんどすべては「である体」ですので、なんだか調子が狂いました。それと同時並行で、もう一つ別の原稿も書いていたのですが、それは「である体」だったのです。「ですます体」である程度の分量を書いてから、「である体」の原稿の方にスイッチするとしばらくは調子が出ません。無意識のうちに「ですます体」で書いていたりして。どうも頭の中はどちらかのモードで文章を生成していて、すばやくは切り替わらないようです。

(ここで文体スイッチ)気がついたことは、「ですます体」で書くと、文章は確かにやさしげになるのだが、それに合わせてくどくなり、同じことを何回も言い換えたりすることが多くなる。それでいて文章の内容はけっしてやさしいとはいえないのだから、そのギャップのためにフラストレーションがたまった。「ですます体」は内容のやさしいことを書くのには合っているが、そうでないときはかえって書きにくくなる。

 「ですます体」を使って書いても別に内容はやさしくなるわけではない。しかし「ですます体」の都合上、やさしく見せなくてはならない。そのために、同じことを何回も言い直したりするといった努力をする。しかし何回言い直しても理解を改善することはあまりないということか。

 「ですます体」はむしろ話し言葉に近い。とすれば、「ですます体」で何回同じことを繰り返してもあまり違和感がないはずだ。話し言葉をよく観察していると何度も何度も同じことを繰り返していることが多い。

 となると、「ですます体」で書く文章はないかというとそうでもない。昨日の日記のように(ハードディスクがとんだ)訴える文章は「ですます体」でなければ書けない。電子会議室のメッセージなども基本的には「ですます体」である。誰か特定の人(集団)に向けて書かれることが多いからだ。

 「ですます体」の文章には、話し言葉に通じた、読み手を感情的に引き込むという効果がある。この効果を利用して、硬い記事のリードの部分を「ですます体」で書いて読者を本文に導入するなどの利用方法が考えられる。