KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

なにが与えられているかが問題ではなく

 みぽさんの日記の「男女平等?」(10月13日付)に触発されて考えた。みぽさんが書いたのは、概略こんなことだ。

学校でも社会でも男女差別を受けたことはあまりない。しかし、男は仕事をし、家庭を支える責任があると考えられている一方で、女は主婦というポジションが特権的に与えられている。私は旦那がボツになったときに働く覚悟はあるが、そうでないかぎり「2番手の心地よさ」を味わう。これは男だったらできないことだ。今の男女平等ぐあいが変わらないことを願う。

 「女であってよかった」という話。実はこういう問題は、性別に限ったことではない。たとえば---

  • 日本人に生まれてよかったよ。だってアメリカ人てなんかしんどそうだもん。しゃかりきになってやるやつとそうじゃないやつの差が大きすぎるし。
  • 自分が今40代でよかったよ。こんな時代に20代をやってたら悲しいよね。
  • 大卒なんてラベルは本当に無意味だった。こんなことなら、大学に行かずに、高校を卒業したときに好きなことができる道を選べばよかった。
  • 今の仕事は本当に自分にあっていないと思う。あのときにもっとがんばって、公務員になっておくべきだった。
  • こんな人と結婚してしまったなんて、私はなんて不幸なんだろう。本当はあのときもっとすてきな人がいたのに。

などなど。際限がないですな。

 実はこういう問題は、自分の中ではとっくに解決がついている。それはアドラーのこの言葉だ。

  • なにが与えられているかが問題ではなく、与えられたものをどう使うかが問題だ

だから上に挙げた諸問題はすべて次のように変換される。

  • 日本人に生まれたことをどう使うかが問題だ。
  • 40代であることをどう使うかが問題だ。
  • 大卒であることをどう使うかが問題だ。
  • 今の職場にいるということをどう使うかが問題だ。
  • この人と結婚したということをどう使うかが問題だ。

そして、性別の問題は、

  • 女(男)として生まれてきたことをどう使うかが問題だ。

という問題に変換される。こういう問題なら考える価値がある。しかし、「どうして女(男)に生まれてきてしまったんだろう」ということは考えても解決のでない不良問題である。生活者としては自分の性をどう生きるかということのほうが大切だ。みぽさんは女としてこの問題に対して実に明確に回答しているわけだ。そして、女に限らず男もまた同じ問題設定ができるし、自分なりの回答をすることができる。

 「なにが与えられているかが問題ではなく、与えられたものをどう使うかが問題だ」---私はアドラー心理学の研究者ではないけれど、たまたま手元に届いたニュースレター「アドラーニュース」の中にこの言葉があった。いい言葉だなあと思って覚えていた。