KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

初めての日の日記と最後の日の遺書

 ナナコさんの「にっきもど記」が終わってしまった。愛読者の一人だったのでとても残念だが、それをくだくだと書くつもりはない。そんなことではなく、最後の日記がとても素敵なのだ。さらりとしていて、優しくて、そしてポリシーがある。

 最後の日に書くWeb日記は、その人の遺書だ。

 Web日記をやめるということは、その人が一定のバイト数を占めていたネットワークや日記猿人という場所から消え去ることだから、一種の「死」だ。ネットワークで知り合った関係だから、その人がネットワークから去れば他にアクセスの方法はない。遠い外国に移住する友達でも、ネットワークでつながっていればそう遠くにいったという感じはしない。しかし、ネットワークでしかつながっていなかった人がネットワークからいなくなれば、それは死に等しい。だから最後の日に書く日記は、その人の遺書なのだ。

 最後の日に書く日記はその人らしさがより一層でるような気がする。

 先頃のWeb日記オフで出た話題だが、その人の初めての日に書いた日記を集めてみたら面白いだろうな、というのがあった。たとえば、かやすがきくこさんの最初の日記を読んでいるとほほえましく思えてくる。それは大部分のWeb日記についてもいえることなのではないか。初めて書くWeb日記、その期待と不安。大げさにいえば、人類共通の意識がそこにある。

 しかし、それ以上に興味深いのは、最後の日の日記ではないだろうか。それは長くも短くも、一定期間、その人がたゆまず日記を書き続けてきたという事実の重みが、最後の日記の土台になるからだ。どんなにさりげない一言にも、読者は想像力をかき立てられる。そして共通パターンはほとんどない。あるとすれば、読んでくれてありがとう、という感謝の気持ち。あとはその人となりが素直に立ち現れる。不謹慎かも知れないが、最後の日記---遺書---は何度でも読んでみたい気がする。