KogoLab Research & Review

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諏訪哲二『学校に金八先生はいらない』

学校に金八先生はいらない

学校に金八先生はいらない

 今年の6月にNHKスペシャルで「学級崩壊」というドキュメンタリーが流され、小学校と中学校のケースをそれぞれ1回ずつ取り上げた。それを見た私の感想は「鬱陶しい金八先生モドキはもうたくさんだ」というものであった。学校という枠組みは確かに特殊な世界であることに意味があるのだが、そこで思い違いをした教師が「自分の信念」にしたがって思うがままに行動し、簡単に失敗し、ますます学級が荒れる、という不毛なサイクルに歯止めをかけなければならないと思った。それは研究者としてではなく、子供を持つ親という立場からの正直な気持ちである。この文章の末尾に、その時に書いた文章を再掲しておく。

 この本の著者は、現役の高校教師である。金八先生が世の中に振りまいた最悪の幻想は、「教育熱心」で「生徒思い」である教師は自分の信念に従って教育していいのだ、ということだと彼は指摘する。本来教師とは「学校システム」の代理人に過ぎないのに、生徒の内面にずかずかと入り込み、感情操作をして、それを「指導」だと言い、私はあなたを「助けたい」のだという。お願いだからやめてくれ。

 金八的現象は、実は学校内で一般的に見られる、啓蒙的に思い上がった教師の一般形であると著者は指摘する。それは反体制の異端でも、根元的な批判の形でもない、一番安直に行き着く先である。それでもなお、ドラマの中で金八先生がカッコよく見えるのは、その対極にガチガチの受験中心主義者や管理主義者といったどうみても悪役という人々を配置しているからだというからくりを暴く。学級王国の裸の王様である。

 まあ教師をいぢめるのはこれくらいにしよう。私はこういうことに無自覚な教師が多いということに耐えられないだけだ。おそらくこの本も現職の教師にはあまり読まれないだろう。私ができるのは教職の科目ではこの本をテキストにしてみたらいいのではないかということを提案することくらいである。(まあ教職担当の先生にはもともと金八的な人が十分に多いのでかなわないと思うが)

 さて、この本をもう少し別の方向から見たい。それは、この本の中で提起されているいくつかの問題に対して教育心理学者はどう答えるだろうかということだ。その問題とは次のようなものだ。

  • 人はもともと学びたがる存在であるというが、本当か
  • 児童中心主義のリベラルな教育の結果、英米で知的レベルが低下した
  • 先生と生徒にはもともと、教える/教えられるという権力構造がある

 1番目については、そうだというのが最近の心理学の知見である(たとえば波多野・稲垣「知的好奇心」中公新書、1973)。しかし、この信念が教師の中で、「みんな学びたがっている」→「みんなやればできる」と変形され、「やってもできない人はいるのだ」という現実を受け入れられなくなるという弊害が出てくると著者は言う。

 2番目については、まさに今「学習者中心主義 Learner-centered principle」が欧米で巻き起こっている。また学習者は自ら積極的に知識を構成する存在であると主張する「構成主義 constructivism」も流行である。これらは「教え込み主義 instructionism」に対する反撃である。その結果が全体的な知的レベルの低下になるのか? あるいは著者が言うように、勉強するものがより勉強し、しないものはよりしなくなるという「勉強する子としない子の分離」という帰結なのか?

 3番目については、ある講演で「権力構造」ということを聞いたときに私は目から鱗で感激したが、なんのことはない現場を知らない私が知らなかっただけで、そんなことは最初からわかっていたことなのである。フィールドワークをやる人が、ここに権力構造を見つけた、と教えてくれるのはいいが、問題はそのあとである。それをいったいどうするのか。著者はこの権力構造が崩壊した、あるいは通用しなくなったというのが学級崩壊の一因であるというのだが。