KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

教育工学会「冬の合宿研究会」

 9時半から12時まで、研究方法論についての研究会。出席者は20名くらいか。まず私が、教育工学の研究タイプはどのようなものがあったかということを概観し、これからの研究としてどのようなものがあるかということを解説した。

 千葉大の植野真臣さんは、データ解析のプラスアルファとして効用関数を利用した意思決定モデルを説明。これはフレーム型のCAIのどこがボトルネックになっているかを推定するモデルとしてCAIの理論的エンジンとして応用できるのではないかと思う。

 大阪大の池田満さんは、教材を一元化して流通させるようなオープンプラットホームの欧米での実例を紹介して、日本でもこうしたプロジェクトが必要なことを主張した。私もそう思う。しかし、実際にどういう形で流通させようというのだろうか。CAI教材のような形なのか、あるいは内容を別にした教材エンジンのようなものは含まれるのか。もしこの二つの種類のものを自在に組み合わせて使えるようなものができればすばらしいと思う。またこのトピックそのものが大きな研究テーマになりうると思う。

 名古屋大の大谷尚さんは、質的研究についての解説。仮説検証型しかないと思っている人たちに、それだけではなく質的研究というべたな方法があるという風穴をあけたい。仮説検証型における仮説は面白くないものが多いということ。それに対して私は、実証研究の方法を一通りさらってみてから質的研究に行くという順序をたどってほしいということ。面白くない仮説をいかに面白くするかが問われている。面白い仮説を見出すために、フィールドワークをすること、質的データをとることは大いに勧められる。しかし、質的データだけで何か知見を見出すという手法にはあまりにも手続きが不明なのではないだろうか(まだ発展途上ではあるが)。仮説なくフィールドデータを積み上げていくことによって、理論が浮かび上がってくるのだという指摘は、楽観的である。しかし、よく考えると、実験的研究というのはこうしたコストを削減するための方法であるということもできる。また統計的データは要約であるということ。高々十数ページの論文で、十分な質的研究の記述ができるのかというイメージがつかめない。

 ひとつ明らかになった問題は、論文となった研究が現場の先生には無関係のものとしてとらえられていて、フィードバックがかからないということだ。これは特に現場の教育に役立つという使命を背負っている教育工学という学問では重要なことだ。これは私も回答を持っていない。あえて言えば、teacher-researcherの中間を取り持つ人を増やすということだ。現場に近いところにいて、なおかつ研究の動向にも目配りをしている人である。それはいったいどのような人になるのだろうか。

 午後は総合学習についてのパネルディスカッション。自然体験学習を強調するパネリストがいたので、質問した。

 子供たちの多くは日の出を実際に見たことがないというデータを出されたが、それがいったい何なのか。私もこの一年日の出を見たことがない。バーチャルかリアルかという二分法で話を進めること自体が、現代にあわなくなっていることに気がつくべきだ。いまや、子供にとって自然体験は非日常であり、テレビゲームが日常だ。携帯ではなすことがリアルであり、対面ではなすことがバーチャルなのだ。つまりそうした区別は無意味だ。それにもかかわらず、なぜ体験学習を勧めるのかということを考えると、そこにノスタルジックなものを無意識に求めているのではないか。総合学習には賛成だが、そこに必要以上にノスタルジーを入れ込まないでほしい。