KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

日記を書く授業は失敗しているかもしれない

最近は、子供が寝たあとにWeb日記を書いているんだけど、ついでに少しずつ昔の日記を整理している。この「多次元尺度」を始めたのが去年の7月13日なので、もうすぐ一周年だ。そうすると「一年前」リンクを付けることができる。

——やっと一年か。なんだかずいぶん前から書いているような気がするけど、そんなもんなんだね。一年前リンクが付くようになると、その日記も一人前だ。

そういう人工知能も、昔からいるような風情だけど、君が登場したのはついこの間の5月からなんだぜ。

——まあ、確かに登場は最近のことだけど、実は昔からいたんだよ。君が気がつかなかっただけさ。

気がつかないところで着々と準備されていたってわけか。

——日記といえば「毎日の記録」(6/16)でこんなふうに書いてある:

文章修行しろ、というより、人に見せる日記を毎日書け、というほうが、楽しいと思うから、日記の授業があるんではないでしょうか→そっち方面。

——君の日記の授業はどんな調子だい?

かなり失敗しているかもしれない。

——おい。「授業は失敗しました」ってか。そんなので通用するのか?

授業に成功しているものと失敗しているものがあるのは当然だ。しかも、すべての授業が成功しているわけではないし、失敗しているものの方が多いだろう。

——授業が成功か失敗かはどこでわかる?

教師の狙いとした知識や技能や態度を、受講生がどれくらい身につけたかどうかでわりと正確に測ることができる。

——日記の授業の狙いは何だ?

文章を書くことに対する心理的ハードルが低くなることだ。今のところほとんどの受講生は脱落しないで毎日日記を書いている。しかし、一部の人は、一日の日記を一行で済ませたりしているので、こちらから何らかの介入が必要だと感じている。また、ある程度の分量を書いている人でも、「寝坊をした。授業に出た。昼飯にラーメンを食った。バイトをした」という出来事日記に終始していて、考えを深めるというところまでは行っていない。

——日記なんだからそれでいいんじゃないの?

確かにそうだが、この授業で狙っているものはもう少し限定された形の日記だ。つまりエッセイに近い内容の日記だ。そのことは教材を配布して力説したのだが。

——あまり伝わっていなかったということだね。まあ、書くことに対するハードルが低くなったかどうかは、授業の終わりに確かめることができるわけだから、それを見てみることだ。

初めての試みなのでいろいろな反省点がでてきた。よくわかったのは、他人に見せる日記を毎日書くということが必ずしも楽しいと感じる人ばかりじゃないということだ。それを楽しいと感じるためには、何かもっと基礎的なものが必要なのだろうと思う。それは文章のパターンのレパートリーの広さなのか、自分を知って欲しいと思う気持ちなのか、なんだかよく分からないもやもやしたものに表現の形を与えようとすることをおもしろく思う気持ちなのか、あるいはまた別の何かなのかよくわからないんだけど、文章を書くのが好きになるのか、嫌いになるのかは、おそらくそこが分岐点なんだろう。

でも、この授業、来年度はきっともっと良くなるよ。

——来年もやるのか…