KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

心の中の強固な原則

おっと、子供を寝かせるために添い寝していたら、そのまま朝まで寝てしまいそうになった。いけねぇ、日記をまだ書いていない。

——日記中毒。

それは二つの意味に取れるな。ひとつは日記を読むことの中毒。もう一つは日記を書くことの中毒だ。つまり、「日記読み中毒」と「日記書き中毒」。

——じゃあ、日記書き中毒。

そうかもね。毎日新聞を読んでも「新聞読み中毒」と呼ばないから、「日記読み中毒」もないのかもしれない。確かに新聞休刊日の朝は、何か手持ちぶさたの感じがあるけれども、それ以上のダメージを与えるものではない。しかし「日記書き中毒」は一日でも休むと妙な罪悪感を生じるという意味で、中毒的といえるかもしれない。

——そんなに大した罪悪感じゃないけどね。

「罪悪感」と呼ぶのは外しているかもしれない。なんというかな、自分でやろうと決めたことを実行できないことの気持ち悪さという感じかな。

——別に「毎日日記を書くんだ」と誰かに宣言したわけじゃないでしょ?

そう。誰に約束したわけでもない。宣言したわけでもない。自分の心の中でつぶやいただけだ。しかし、逆にだからこそ、その原則を自分で破ると気持ちが悪いんだな。

だからこんなふうに言えるんじゃないか。「有言実行」ということばがあるけど、自分にある行動をさせたくて、それを他人に宣言することによってある種のプレッシャーを自分にかけるという方法がある。しかし、その方法は、外からのプレッシャーに頼って自分の行動を制御しようとしているという意味で弱い。外からのプレッシャーを裏切るようなことを我々は実際よくするし、何かができなかった言い訳ならばいくらでも考えつくことができる。

私たちは他人との約束を破っても平気でいられる。そのことで他人から責められても平気だ。それはある約束をしたらすぐにそれを破ったときの言い訳を考えてあるからなのさ。

しかし、自分との約束を破ることは気持ちが悪い。それは誰も責める人がいないから。責める人がいないので、言い訳をすることができないのだ。それが気持ち悪さの原因だ。

自分の心の中に自分自身の原則を強く持っている人と、そうでない人がいる。原則を持っていない人にとっては、他人の行動や考え方あるいは「世間」が基準になる。世間の基準に従って生きる人だ。しかし、自分の原則に従って生きる人は、世間の意向とは関係がない。そういう人は少数派でしばしば変人扱いをされたりするけれども、何かを成し遂げるということに関しては、強力だ。彼らの行動に躊躇がないのは、原則が強固でクリアだからなのだろう。

——私には不要だが、どうやったらその強固な原則を自分の中に作ることができるんだい?

う、それは。