KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

疑似締切の効用

 きのう、投稿論文を書き終えて、送ることができたのでほっとしている。

 論文というのは締切日がなくて、常時受け付けているのが普通だ。だから、なかなか書くことができない。締切日があったとしてもなかなか書くことができないのだから当然である。締切日がないので、夏休みが終わる頃には「ああ、結局書けなかったな。まあいいや、冬休みに書けば」ということになる。で、冬休みには当然書けないので「ああいいや、春休みに書けば」ということになる。で、春休みには「夏休みがあるじゃないか」である。実に締切がないということは恐ろしいことである。

 こうした問題を解消するために、いくつかの学会では、「次の号の雑誌に載せる論文の締切は○月○日」というような設定をしている。これはなかなかうまい方法だ。次の号に間に合わなくても、その次の号に載せればいいので、これは厳密には締切ではなく、「疑似締切」だ。しかし、まったく締切がないよりは、投稿を集めるという点ではるかに効果があるだろう。

 締切がないということは恐ろしい。たとえば、冬のスタッドレスタイヤを普通のタイやに付け替えるということには締切がない。したがって私のように、「いいや、来週にしよう」ということを思い続けてきて、結局真夏を過ぎた今でもタイヤ交換をしていない人が出てくるのである。もうすぐ9月にはいるので、タイヤ交換をせずに、スタッドレスのままいこうかと思う。そのうち雪が降ってくる。

 こうした事態を避けるために、自分で「毎年5月の連休にはタイヤ交換をする」というように、疑似締切を設定することが大切なのである。論文の場合も同じように「一年に一本は論文を書く」というような締切が必要になってくる。これを忠実に守る人は、地味でもひとかどの人間になることだろう。

 課程博士の場合をのぞいて、博士論文を書くことにも締切がない。それで、「少し時間ができたらやることにしよう」と思っていると、いつまでも書けないことになる。だいたい人生において「時間ができたら」ということはないのである。時間ができたら遊ぶのが人間の習性だからだ。博士に価値があるとすれば、それを取るまでに自分に締切を課し、律することができたという証明であるからだ。だから、やはり博士論文にも疑似締切が必要なのである。

 とんだところで自分のクビを絞める結論となってしまった。