KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

認知的不協和をそのままにできる能力

 AさんとBさんという二人の知り合いがいて、自分はそのどちらも好きであったとしよう。しかし、あるときAさんがBさんのことを悪く言うのを聞く。つまりAさんはBさんのことが嫌いだということが分かった。そうすると自分はなんとなく居心地が悪い。自分の好きなAさんとBさんともお互いに好いていてくれればバランスがとれるのだが、そうでないのでどうも座りが悪いのだ。これが認知的不協和ということ。

 認知的不協和が起こると、人間は自然にそれを解消しようとする。つまり、Aさんが嫌いだというBさんの評価をそのままにして、Aさんの評価を下げるか、あるいは、Aさんの評価をそのままにして、Bさんの評価を下げるかどちらかの方法を採ることによってバランスを戻そうとする。

 具体例を挙げよう。テレビを観ると藤原紀香が映っていた。私は「うむ、悪くない」と思う。しかし、一緒にそれを観ていた妻は「藤原紀香は好きじゃない」と言った。そこで私のとる方略は次の二つのうちどちらかである。一つ目は、「なんだ藤原紀香の良さがわからないなんて、困った妻だ」と考えて、妻の評価を下げる。二つ目は、「ふむ、妻の言うとおり藤原紀香はそれほど大したものではないのかもしれない」と考えて藤原紀香の評価を下げる。どちらかの心の操作をすることによって認知的不協和を解消する。

 認知的不協和にはこれ以外にもさまざまなバリエーションがある。たとえば、自分が嫌いな相手PとQがいたとしよう。ここでPとQがお互いに好いているということがわかったとすれば、自分は「ほら、やっぱりあいつらはつるんでいる。嫌らしいやつらだ」と考える。しかし、PとQとがお互いに嫌いあっているということがわかったらどうか。これはバランスが悪いので、それを解消しようとする。つまり、自分の嫌いなPがQを嫌っているとすれば、「本当はQはそれほど悪いやつではないのかもしれないな」と考えるのである。敵の敵は味方、というやつである。

 この理論はさまざまな場面に応用できる。

 たとえば自分が好きな日記Xが、これもまた好きな日記Yをののしり始めたとしよう。そうすると自分は困ってしまうのである。自分の好きな日記同士は仲良しであって欲しい。それが自分のバランスを保つからだ。しかし、そうではない事態が起きてしまった。そうすると自分は、ののしり元の日記Xの評価を下げるか、あるいはののしり先の日記Yの評価を下げるかのどちらかの行動をとることになる。こうしたメカニズムによって、周囲を巻き込んでのケンカが広がることがあるのはよく観察される。

 また、たとえば、私の日記を好きな人がいたとしよう。ある時その日記のなかで「金八先生は嫌いだ」ということが書かれてあった。しかし、その人は日頃から金八先生の大ファンだった。そうすると、その人のとる行動は「ちはるも大したことないな」と考えるか、あるいは「ひょっとしたら金八先生は勘違いなのかもしれないぞ」と考えるかのどちらかである。

 なぜ人間は認知的不協和が起こるとそれを調和させるように行動するのだろうか。一番単純で大胆な仮説は、「人間は世界を好きなもの(良いもの)と嫌いなもの(悪いもの)とに分類したがる性質がある」ということだ。そしてこういう考えは自分が生き延びるための戦略として有効なものであったのかもしれない。つまり、味方の味方を味方としたり、味方の敵を敵としたり、敵の敵を味方にするといった操作が生き延びに有効な戦略であったということだろう。が、実証は難しいので深入りをしない。

 私が言いたいのは次のことである。認知的不協和が生ずると一般に人はそれを解消しようとする。なぜかよくわからないが解消しようとする。不協和のままにしておくのはつらいのである。そうすると、認知的不協和が生じてもあえてそれを解消せずに、そのままにしておける能力というのはひょっとしたら大切なのではないかと思うのである。

 認知的不協和をそのままにしておける能力というのは、たとえばこういうこと。自分が好きなAさんが、これも好きなBさんを悪く言い始めた。そこですぐにAさんが悪い、あるいはBさんが悪いという、不協和解消メカニズムにしたがった行動をせずに、いったん保留しておくこと。保留して、Aさん、Bさんどちらの評価も変えずに考えてみること。つまり、「Aの言うことはおかしい、だからAはだめだ」という思考回路をやめること。

 簡単に言えば、人格と意見とを完全分離するということだ。意見に対しては攻撃できるが、人格に対してはできない。このことをよく忘れがちだ。